2016年04月03日

◆花に因んだ一つの話題

眞鍋 峰松



桜の花が満開。今年は気候不順のせいか、梅の開花が遅れ、桜の開花時期と少し重複して、例年にも増して我々の眼を楽しませてくれている。 そこで、前回に続き、花に因んだ話題から。
 
これも何かの書物で読んだ話だが、江戸時代後期の儒学者に安積艮斎(あさか ごんさい)という方がおられた。この方、二度結婚して二度とも、嫁さんに逃げられたという。「その容貌醜なるに耐え得ずして」というから、よほど酷いご面相だったのだろう。
 
彼、ここにおいて発憤し、「もはや、女とは縁なきものと決め、今後奮励して大学者となり、この恥をそそぐ」と志を立て、郷里を捨てて江戸に出、佐藤一斎の門に入って猛勉強をした。やがて、幕府の学問所昌平黌の教授にまでなった。
 
その彼は、逃げた嫁さん二人の画像を床の間にかかげて拝んだという。「自分の今日あるは、この二人のお陰である。もし自分が彼女らに愛されていたら、この学者艮斎は生れなかったはずだ。その恩、忘るべからず」として。 この話からしても、艮斎は並み大抵の人物ではない。
 
この大学者 安積 艮斎が、その弟子たち与えた一文が、「梅には梅の愛すべき香色あり。桜には桜の愛すべき香色あり。 桃李海棠の類に至り、おののその善き所あれば、その本色のままを佳しとす。もし梅に桜の花の開き、桜に梅の花開きたらんには、妖というふべし。人もまたかくの如し。」という言葉である。

そりゃ、そうでしょう。 梅が桜を羨んだり、桜が梅の花を咲かせようとしたり、現代の人間は遺伝子操作とて兎角そういうことをしたがるが、もしそれが実現したら、化け物である。 

艮斎がここで言わんとしたのは、人もまた花と同じように、「本色のまま」がいいと言うのである。 人みなそれぞれ、良いところがあるのだから、いたずらに他を羨まず、他の真似をせず、自分の本来の持ち味を生かしきりなさい、ということ。

一時若者たちの多くが、我も彼も、これが自己主張・個性の表現とばかりに頭の毛を真っ黄々に染め上げたり、脱色したりして街角を闊歩した時代があった。また、若い娘の中には、顔をガングロと呼ばれる、何とも形容しようも無い容貌にさえ仕上げていた時代があった。 

これら若い日本の世代を見ながらながら思ったことは、無理やり周囲に合わそうとするあまり、自分自身を消し去ってしまう傾向が見られがちな点である。黄色や茶色の髪、果てにはガングロなどで自己を主張したと錯覚しているのではなかろうか。
 
大事なことは、違うだれかに自分を変身させることではなく、まずは自分が何であるかを知ろうとする姿勢であり、そうした姿勢が身についてこそ、自分は他人と違う、他人も自分と違う、それで当然ではないかという考えにつながっていく。 

ここに、艮斎先生が仰せの、人みなそれぞれ、良いところがあるのだから、いたずらに他を羨まず、他の真似をせず、自分の本来性を生かしきりなさい、という言葉の意味があるのだろう。

考えれば、私も春を盛りに咲き乱れる花を愛でながら、妙なことを考えたものである。
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