渡部 亮次郎 NHK政治部(当時)
将来の近きライバルと予想
以下は初の訪中から帰国直後、あるミニコミ紙(発行:昭和47年10月28日)に執筆したものである。書棚の中から33年ぶりに取り出してみて「中国は将来の"近きライバル“」と既に分析していたのを発見した。今月29日が日中国交正常化への共同声明の調印日である。わたしはNHKを代表して同行した。以下、同行記である。
『百聞は一見に如かず』と言うが、『群盲、象を撫でる』ともいう。「中国見たまま」といったところで滞在期間がわずか6日間。目的が田中首相の「同行」であってみれば私の「一見」が「百聞」以上のものだとはいえない。
まして、同行記者80人の一員として、ぞろぞろ田中首相に従って歩いただけであってみれば「象を撫でない盲」にも劣る「訪中記」である。
しかも共産国ならどこでもそうであるように、猛烈な取材規制を受けながらの取材だったのであるから、お恥しい次第ではある。
端的にいって、田中訪中同行記者について中国側が初め言ってきたのは60人。このうち首脳に3メートルまで近づける「近距離」の記者、カメラ記者、 TVカメラマン、政府公式カメラマン、TV中継カメラマンは各2人で計10人。それ以外(大部分)は会談場の玄関口でシャットアウトされる「遠距離組」と言うものだった。
時として、いま西山事件【注】にもある如き方法さえ用いて、嘗て大平外相をして「人の腹の中に手を突っ込む奴ら」と言わしめたほどの「マスコミ・アニマル」である当方としては大いなる不満を表明し、外務省情報文化局を通じて規制緩和を要求した。
その結果、「推測記事がある程度、書かれるのは仕方がない。同行記者数は20人増の80人とする」という最終回答があっただけで、“規制“は緩まなかった。
パズルを解く記者たち
共産国のことだから、さらに「公共建造物の撮影、人民へのインタビュー、家庭訪問、指定区域以外への外出について事前許可なくして行ってはならない」のは当然であった。
帰国後、週刊誌が「林彪事件や台湾問題について人民の反応も取材できなくて、何が同行記者か」と叩かれたが、事情も知らずして、80人の怠け者が北京や上海をブラブラしただけと言う論評にはハラが立った。
正直な話「テメエ、やってみろよ」と言いたい。尤も例によって中国礼賛が先に立って、規制を受けた取材であることなど、少しも書かなかった方にも罪がある。
このように、田中訪中同行記者団は「見ざる聞かざる言わざる」の3重苦に悩まされての取材だったが、中国の現状を見れば、こうした規制も止むを得ざる措置だった、と言えなくもない。
テレビは白黒方式!のが全土に10万台(公式)しかない。7,500人に1台の割合。1人民公社に1台あるかないか、というのが現状である。しかも放送時間は夜7時から3時間だけ。
今日の事象は翌日の夜でなければ放送されない。中国側も「歴史の新しい始まり」と高く評価した日中共同声明の調印式という「大ニュース」でさえ、たしか翌日の夜まで放送されなかったはずだ。
中国人にとって、日本で言えば天皇以上である毛沢東主席と田中首相との”世紀の会見“でさえ翌28日の夜7時にならなければ放送されなかったのだから。
ラジオはかなりある。だが日本のように実況放送されてない。今日のニュースを今日中に伝える事はない。新聞はどうか。まず各戸配達は無い。昼ごろスタンドに買いに行けば朝刊(人民日報)が手に入る。(だが面白い記事などどこにも無い)
革命(建国)以来23年経ってこの有様であるから,以前はもっと低水準だったと思われる。その間に人民と言う名の大衆は「ニュースとは翌日にならなければ分からぬもの」と思い込むようになった。
だからニュースに餓えるということも無くなったのではなかろうか。そういうふうにまた指導者たちも思い込んでいるから、日本から80人もの記者が来ることさえ驚きなら、相手のハラに手を突っ込むほど、手を変え品をかえて接近取材をするなんて、思いもよらないことなのである。
万里の長城で、この規制を乱し「総理!そこで止まって、こっちを向いて笑って」とカメラマンたちが田中首相に注文をつけるのを見ていた中国人たちは「日本のマスコミというのは政治家を"指導“するのか」と驚く、というよりもあきれていた。
田中、周恩来による首脳会談が4回、大平、姫鵬飛による外相会談が3回。特別番組として田中の毛沢東"謁見”があった。しかしこれらの内容は誰1人新聞記者が見ても聞いてもいたわけじゃない。
例外を除いては「発表することは何もありません」という二階堂官房長官の"発表"をもとに、ああでもないこうでもないと組み立てた"推理小説“である。
とはいっても前もって相当に勉強はして行ったから、発表の後交わされる二階堂氏とのやり取りから、さながらクロスワード・パズルを解くように会談内容を組み立てて行ったから”小説"とも言えない。
4回に及んだ首脳会談は、その都度、何を議題にしたのかは、もちろんいまだに明らかにされていない。だから現地にいるときも、しつこく聞き出すわけだが、首相をして「この人はなんでもしゃべる」と言わせた二階堂氏も「なんとも申し上げられません」という返事を繰り返すのみ。
二階堂氏の顔色や目つきや、口許を見てのパズル解きであった。東京にいるときなら、会見の後の夜討ち朝駆けの奇襲取材はお手の物なのだが、北京では、二階堂氏は会見が終わるや否や雲を霞と迎賓館に閉じこもってしまう。
仮に迎賓館に追いかけようにもタクシーが無い(制度としてない)し、おっかけたところで門前の衛兵に阻止されてお終い。それでは電話でと言っても、電話番号は公開されていない。
諦めず、夜の公式宴会で近付こうとしても不可能。テレビでご覧の通り、丸テーブルに座ったまま誰も動けないからこれまた不可能。仮に立って行ったって、3メートル以上は近づけない。
日本が得た成果は?
こんな状態であるから、例えば共同声明の調印式が予定より15分も遅れた理由が帰国まで分からなかった。日本と現場中継のマイクロ回線が繋がっているから、東京から、どうしたんだと、やいのやいのと言ってくるがどこにも聞きようが無い。
やっと、上海から帰国の途についた機中で田中首相から「中国側が3軍への了解連絡に手間取ったため」と説明されてやっと分かった(政府が軍に了解をとる、共産主義国家ならではだ)。
ついでながらもう富士山が見えるころになって田中首相は「会談は到着当日、25日午後の1回目がヤマだった」と明かした。つまり過去における日本軍国主義の残虐行為を水に流して再出発という日本。
対する中国は深い反省を要求して、初めから激しくぶつかりあった(のちに明らかになったことだが、過去の反省については、この日の夜に開かれた招宴での田中挨拶の淡白さに中国側が激怒)結局「反省」の一札をとられたのだった。
そう言われて共同声明を読めば、日本が得た成果は皆無である。なるほど戦時賠償請求の放棄を得た事は成果だろうか。この事は1954{昭和29)年7月、園田直、中曽根康弘、西村直己の各氏が強行訪中した際、中国首脳から既に明かされてれていたものだ。
まさに「加害者の敗戦国」が「被害者たる戦勝国」にこてんぱんにやっつけられた正常化だったといえよう。もちろん日中正常化とはこういうもんだとは予め分かっていた。だから慎重派と言う反対派があったのは当然だった。
それを「それ急げ、やれ急げ」とマスコミが叫び、「いや、もっと慎重に考えながら・・・」と言う慎重派がさながら非平和愛好家のように見られると言う今の風潮は一考を要しよう。
熱しやすく冷めやすい大和民族の気風に乗っかって、戦後27年の懸案をあっという間に処理して見せた田中内閣ではあるが、後世の史家がこれをなんと評価するか、興味深いところである。
日本人よ目を開け
中国について私は本だけで36冊読んで行った。忙しい取材の合間であるから4年ぐらいかけて読んだ。担当した自民党の派閥や領袖も中国問題については、取材でいわばハト派の河野一郎派から中間的な森、園田派、タカ派の福田赳夫派(旧)やら賀屋興宣、岸信介、重宗雄三の各氏と言った幅広い体験をして行った。
今(1972年)の日本人の主婦はマイホームととか電子レンジとか別荘を欲しがっているが、中国の家庭の3種の神器は1に自転車、2にミシン、3がラジオだと言うことだった。
着ているものも婦人ですら一種の国民服とでも言うのか嘗ての日本陸軍の上着の色をグレイにしたものに同色のズボン。化粧は誰もしていない。膨らみの足りない人は男と区別がつかない。
街に首都と言えどもタクシーは無い。バスはどれも満員。飛行機はおろか汽車にさえ乗ったことの無い人も多いはずである。まさに何十年前の日本だろう。北京の中心部から少し行くと人糞を担いだ農民を何人も見た。
しかしまた泥棒はもちろん犯罪ない(ことになっていたか)。高望みしなければ明日への心配は無いかもしれない。しかし人間は高望みがいわば本能である。(中略)
それよりもこれからの中国はどうなるか、日本との将来はどうなるかを考えてみることの方が大事だろう。「資源の輸出国にも、消費物資の輸入国にもならない」と周恩来首相は言った。
当面は日本の工業技術を輸入して近代工業国の建設に邁進するであろう。技術知識の吸収は旺盛である。砂に水を吸わせる如くである。それはさながら明治維新の先輩たちが西欧列強から知識を吸収しながら建国した日本と同様であろう。
だが、知識を吸収した中国は遠からず世界市場で日本の強敵となって立ちはだかるはずである。その時の用意はいま美酒に酔いしれている日本国民にあるだろうか。疑問である。(了)
主宰者談:この後すぐ、周恩来、毛沢東の順にこの世を去った。見透かしたようにトウ小平が復活して4つの現代化政策と開放経済体制と、事実上の資本主義体制に切り替え、異常な経済発展と軍の膨張を進めている。田中首相の予想を上回った。
(注)西山事件とは毎日新聞政治部記者西山太吉氏による、沖縄返還交渉にからむ外務省機密漏洩事件。西山記者が、かねて肉体関係を結んでいた外務省外務審議官付き女性職員から交渉にからむ機密文書のコピーを入手。
記事にせず、社会党(当時)横路孝弘議員に渡して衆議院予算委員会で政府を追及させた。蓮見女史と共に西山記者は逮捕、起訴され執行猶予付きの有罪判決が確定した。
事件をモデルにして『大地の子』『白い巨塔』『盆地』などの著作のある小説家山崎豊子氏(毎日新聞出身)が『運命の人』を平成17年1月号から月刊誌「文藝春秋」に連載した。
他方、西山氏は逮捕から33年経った2005年4月に行動を開始した。
<1972年の沖縄返還交渉に伴う日米間の密約を示す文書を入手して報道し有罪判決を受けた元毎日新聞記者の西山太吉さん(73)が2005年4月25日「密約を否定した当時の判決は誤りで不当な起訴で名誉を棄損された」とし、約3400万円の国家賠償を求め東京地裁に提訴した。
密約は「沖縄返還に伴う土地の復元補償費400万ドルを、米国に代わって日本が肩代わりする」というもの。西山さんは71年、当時の外務省職員から文書を入手して一部を報じ、72年に同職員とともに国家公務員法違反で逮捕・起訴され、最高裁で懲役4月、執行猶予1年の有罪判決が確定した(1審は無罪)。
しかしその後、00年に日米間の合意事項を示す文書が米公文書館で見つかり、02年には密約が発覚しないよう、沖縄返還協定発効後に日米政府が口裏合わせをした公文書も見つかっていた。> (毎日新聞のサイト)