2016年04月10日

◆華国鋒は毛沢東の息子

渡部 亮次郎



死んだ元党主席の華国鋒。忽然と現れた彼、華国鋒は毛沢東の庶子だった。

思い起こせば、日中平和友好条約の締結・調印のため北京を訪れていた日本の外務大臣園田直は1978年8月12日午後5時36分から6時まで人民大会堂で華国鋒主席と会見、私も秘書官として立ち会ったが。印象に残る言葉は皆無だった。

むしろ影が薄かった。<後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退く>ことを予感させた。

【大紀元日本8月23日】中国の華国鋒・元党主席が2008年8月20日午後零時50分、病気のため北京で死去した。死因は伝えられていない。享年87。中国当局の官製メディア「新華社」が報じた。華元党主席は政権から退いた後、離党届を提出していたと伝えられた。

華元党主席は、1949年の中国共産党政権確立後、故毛沢東国家主席に「忠実な部下」として認められ、湖南省第一書記、副首相と地位を高めた。1976年、死去した周恩来・元首相の後任として首相に就任、故毛国家主席から後継者に指名され、1976年9月に共産党主席、軍のトップにも就任した。>

このような「ヘリコプター」出世について中国は1度も正式に認めた事は無いが、当代随一の中国ウオッチャーたる日本人宮崎正弘氏は「華国鋒は毛沢東の庶子」と断定する。

1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「姚」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った」と断定している。「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成20年(2008年)8月18日(月曜日)通巻第2293号)

後の政権内部の権力争いで故・トウ小平氏に負け、1980年に首相を、翌年には党主席と軍のトップを退任、事実上政権から退いた。

香港誌「争鳴」の2001年報道によると、華元党主席は1998年の第9回全人大会議で2つの議案を提出した。

全人代常務委員会に対し、@憲法の職権を公正に履行、政府機構と幹部の腐敗を監督A中央政府の高級幹部およびその家族の財産を公開の2点を求めた。結局、その議案は取り上げられることがなかった。

翌99年から、同氏はすべての中央会議を健康上の理由で欠席するようになり、07年10月の第17回党大会には特別代表として姿を見せたのが最後だった。C:\Documents and Settings\Owner\My Documents\大紀元時報−日本華国鋒.htm
 
また、同誌によると、2001年9月中旬、華元党主席は最高指導部に離党届を提出した。1ヶ月後に開かれた特別会議で、離党の理由について、「今日の共産党は昔の国民党とどこが違うのか」と幹部の汚職などに強い怒りを示した。

その言葉の背景には、1940年代、中国共産党が内戦で「反腐敗、反専制」のスローガンを掲げて国民党から政権を奪取した経緯がある。

その席で、華元党主席は最後の党費として、5万元(約80万円)を納め、「貧困で、医療治療が必要とする党員のために使ってほしい」という言葉を添えたという。

当時の報道によると、同年には計87人の共産党幹部が脱党を宣言、政治局の元委員、国務院元委員、将軍なども含まれている。当局は「脱党の連鎖反応を起こさないため、できるだけ慰留する」との方針で説得を続けたようだが、結果は不明だという。(再掲)


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