2016年04月16日

◆私の「身辺雑記」(333)

平井 修一



■4月12日(火)、朝4:00は室温15度、ずいぶん冷えた。

昨日は夕方、N母子が残り物のピザを引き取りに来たが、ついでにイチゴケーキも食べ、ドラヤキもお土産に持って帰った。

カミサンは夕べ、「ああ、美味しかった、もう食べられない」と言った後で、「あら、賞味期限になりそうだから」とドラヤキを持って部屋に戻った。小生は食事中で、思わずクスクスしたが、カミサンも照れ笑いをしていた。

わが街で女性から圧倒的な支持を得ている店はケーキ屋の「アノーAnnaue」である。女どもは狂気のごとく群れている。体が甘味を求めるのだろう。「暇つぶしニュース!」から。

<多くの女性は甘いものを食べるが大好きだ。ケーキのバイキングは日々多くの女性客で賑わい、新作スイーツやデザートはそのほとんどが女性向けである。一方の男性は甘いものをあまり食べない人が多い。

それらの理由にはいくつかの説が存在する。

どうやら多くの女性が(中には好まない人もいるが)甘いものを好む理由は、生物としての「人間」の本能に関係があるようだ。

甘いものは、そのほとんどが高カロリーで炭水化物を多く含んでいる。それら高カロリーな栄養素は体の中に取り込まれた場合、皮下脂肪に変化するのだが、その皮下脂肪の重要性が女性と男性で全く異なるのである。

その理由は女性ホルモンの存在だ。女性は男性よりも女性ホルモンの割合が多く、女性としての体型や機能を維持するために必要不可欠な物質であると同時に、周期的に女性ホルモンを多く必要とする。

生成された女性ホルモンは皮下脂肪に蓄えられる。皮下脂肪は女性ホルモンを蓄える倉庫のような役割を果たしているのである。

つまり、皮下脂肪は女性にとって女性ホルモンと同じくらいに大切なもので、それを生成するためにカロリーを必要とすることを女性の脳は本能的に知っているのだ。

皮下脂肪を蓄えることは同時に女性らしさを保つためでもあり、女性が「デザートは別腹」であるのも、少しでもカロリーを摂取しようとする脳の働きによるものである。

また女性は定期的に低血糖になるため、それを補うために甘いものを好むとする説や、甘いものを食べた時に、脳に対して男性よりも強い刺激が送られるためという説もある。

一方の男性は、甘いものに積極的でない場合が多い(もちろん好きな人もいるが)。その理由としては、女性との食事の奪い合いを避けるために本能的な部分で甘いものを避ける傾向にあるという説や、本来の狩りをするという立場上、高カロリーの摂取は不向きであるということが本能の中に存在するためではないかとされている。

(平井:狩猟や戦争のために肥満を避けたい、筋肉をつけたい、ということか)

これらをまとめると、女性が甘いものに目が無いのは本能であり、カロリーを取って太りやすいのも人間としての役割を果たす為と考えられるので、決してよく誤解されがちな「自己管理」や「欲が多い」といった精神論ではないのである>(以上)

ふーん、まあ、そういうことかもしれない。こういう説もあった。

<たしかに、女性は甘いもの好きの人が多い。事実、女性は甘いものに弱い。なぜでしょうか。

女性ホルモンの代表である「エストロゲン」「プロゲステロン」が関係しています。ふくらんだ乳房や、子宮の発達、月経などは、すべて女性ホルモンが影響しています。女性が女性らしくなるのは、これらのホルモンのおかげです。

女性には、月1回の月経があります。月経の際は、子宮にためられていた糖分を大量に排出するため、糖分が不足になりがちです。そのため、不足した糖分を補おうと、無意識のうちに甘いものを求めてしまいます。これが、女性が甘いもの好きである理由です>(HappyLifeStyle)

男は食糧を確保し、外敵から女子供を守るために「気は優しくて力持ち」がいい、女は「きれいでしっかり家庭(子供)を守る」がいい。男は度胸、女は愛嬌。これが初期設定だろう。

今は「草食男子、スイーツ男子」「肉食女子、オヤジギャル」なんて言われるが、戦場から武将が妻にあてた手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」が人間のOS、本能だ。♪男は戦場駆けまわり、女はコタツで添い寝する。

これが理想であり、女が戦場(労働市場)に出てくると子供が減る、最賃も上昇しない→共稼ぎ→人口減。先進国は皆これで苦しんでいる。

アカに騙されて男と女の本来の役割から外れると亡国になる。日本もこの道を歩んでいる。「輝いている女性」は子供を産まない(あるいは産めない)。櫻井先生も高市先生もゼロ。曽野先生は1人だけ。稲田先生は2人だけ。

最盛期は米国有数の規模を誇ったシェーカー教(キリスト教系)は「個人として自立すべきだ」と教えていたのだろう、信者が結婚しなくなってわずか100年で亡びた。

結婚し2人になって初めて社会単位になる、2人のセットで一人前になる。子供をたくさん産んで国が発展するのは良いことだ。みんなが同性婚したらどうなる。亡国だ。

出産、子育てを支援するのは良いことだが、出産、子育てという内職(うちしょく)と外で働くという外職(そとしょく)は多くの場合両立しない。二兎追う者は一兎も得ず。男に「イクメンになれ」といっても日本ではその伝統がないのだから無理。男女には生来の役割分担があるのだ。

当たり前のことが非難されたりする。是正しなくてはならない。除染&再生には最低でも20年はかかるだろう。

今晩は集団的子育て。海鮮花散らし寿司、新じゃがの煮物、イカの酒蒸し風、モズク酢、刺身、アサリのお吸い物などを7人で楽しむ。

■4月13日(水)、朝3:00は室温17.5度、暖かい感じがする。真夜中だけれど量が多いので洗濯。日本を洗濯、世界を洗濯したくそうろう。

桜吹雪の中をハーフ散歩、水面も桜でいっぱい、気分がいい。帰りに床屋を覗いたら珍しく客がいないので「ラッキー!」と散髪してもらった。安い、上手い、速いから大人気。カット&シャンプーでたったの1500円、20分。

値上げしろと言っているのだが・・・「50円で客の流れが変わっちゃうんですよ、この街は床屋が多すぎるし、美容院もカットだけで700円とかやっているし」とご主人は言う・・・日本人はいつから貧乏人、ケチになったのか。なんか情けない感じがする。

消費税が5%から8%に上がっただけでキンタマが縮み上がってしまった。そのくせドーデモいいケーキ屋に群がる。頭おかしいんじゃないか。羊の群みたいに右往左往している。すぐに騙されたり洗脳されたり・・・マイナス金利だからタンス預金にしようと金庫が売れているそうだが、泥棒を招いてるようなものだ。愚の骨頂。

バカを洗脳して稼いでいる日共の志位和夫の両親は教員で日共党員、最悪の家庭だ。志位は一人っ子のようだ。志位も子供が一人だけ。これでは日共も亡びるわな。少子高齢化が著しく、集会、デモはノータリン、間もなくノーリターンの“逝ってよし”風ヂヂババばっかり。

志位和夫の伯父さんの志位正二(しい まさつぐ、1920年1月1日 - 1973年3月31日)は陸軍軍人、陸軍少佐。波乱万丈、すごい経歴、すごい人生だ。アカに染まるとひどい目に遭う。ウィキから。

《志位正人陸軍中将の息子として生まれる。

終戦後シベリア抑留にあい、1948年4月にソ連諜報員となる誓約を行い、モンゴルのウランバートルにあった「第7006俘虜収容所」において朝枝繁春、瀬島龍三、種村佐孝らとともに諜報員、共産主義革命のための特殊工作員としての訓練を受ける。

1948年11月、シベリアより復員。帰国後の志位は1949年2月からGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、抑留帰還者の尋問調書からソ連や中国の地誌を作成していた。1950年6月、GHQの取調べを受ける。

1951年10月以降、G2在職のままソ連国家保安委員会(KGB)にエージェントとして雇われる。1953年11月、外務省アジア局調査員となるが、「二重スパイ」の活動は継続した。

ユーリー・ラストヴォロフがアメリカに亡命した12日後の1954年2月5日、警視庁公安部に自首し、自身がソ連の工作員(スパイ)であったことを認
めた。

その後、海外石油開発(株)常務となる。1973年3月31日、シベリア上空を飛行中の日本航空ダグラスDC-8型機の機内で死去した》(以上)

海外石油開発は現在はジャパン石油開発(株)のようだ。沿革には「1973年2月 主要石油開発会社9社の出資により当社設立。英国石油(BP)より海外石油開発?が取得したアブダビ沖合のADMA利権を継承」とあるから53歳の志位正二は忙しかったに違いない。世界中を飛び回っていたろう。

志位正二はなぜ自首したのか。ソ連外交官を装ったラストヴォロフは日本におけるソ連スパイの元締めで、在日米軍将校などにも接近していた。1953年3月5日、スターリンが死去して間もなく、内務相のベリヤが逮捕され、国家保安機関内で粛清が始まるとの噂が流れた。

1954年1月、ソ連大使館内の高官による会議が開かれ、米国に接近し過ぎと見られたラストヴォロフのモスクワ召還が決定された。彼は、同年1月25日発の横浜−ナホトカ便で帰国するはずだった。帰国前日の1月24日、工作中に知り合った英語教師(アメリカの防諜員)メリー・ジョーンズ(後の妻)と接触し、CIAの代表部に引き渡された。

志位正二はこの情報を知って戦慄、驚愕したろう。ボス、保護者、スポンサーであるラストヴォロフが亡命すれば、日本でのスパイ網(日本人だけで36人)が明らかになり、逮捕されるのは明白だ。その前に自首するしかない。かくしてボスの亡命を知ると大急ぎで自首したわけだ。「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」、全部ばらしたろう。

外務省欧米局第5課事務官・日暮信則らが国家公務員法100条(秘守義務)違反の容疑で逮捕され、日暮は事件の取調中、4階の窓から飛び降り自殺した。

志位正二は不起訴だったようだ。公安調査庁の覚え目出度く海外石油開発常務にまで出世した。ソ連の日本人スパイとしては尾崎秀実、瀬島龍三に次ぐような大物だったろう。

なお、この際に外務省国際協力局第1課事務官・庄司宏も逮捕されたが、証拠不十分で無罪判決に。この後、外務省を退官、弁護士となり、「救援連絡センター」を開設して代表に就任。1990年死去。

1972年頃、保釈後の小生は救援連絡センター(実質は中核派)でしばらく用心棒としてゴロゴロしていたが、小生らの被告団の弁護士は現センター代表弁護士である葉山岳夫氏だったから、庄司宏とも会っていたかもしれない。

志位正二は結果的には“労働者の祖国”ソ連を裏切ったことになるが、この頭脳をどうやら志位和夫が引き継いでいるのではないか。和夫は誰を裏切るのだろうか。

結党90年でも革命できず、政権奪取を諦めて今や「確かな野党」で満足している日共。殺し放題の暴力革命、やりたい放題のプロレタリアート独裁。それを希求するアカ信者を見事に裏切ってきたのが日共、志位和夫らだ。

志位正二と志位和夫、共産主義のトップランナーは一周して共産主義の尻に噛みつき、あるいはメシのためにしがみついている。いずれも自己保身のため。恥ずかしくないか。

彼らは平気だ、「自分は正しい、同志以外は無知、バカ、敵」と思っている。信者は所詮は米櫃、財布として利用されるだけだ。

共産主義は間もなく地球から消えるだろう。一掃に寄与して、彼らの最後を見てから昇天したいものである。

今朝の産経の曽野綾子氏の論考は面白かった。曰く――

「世間は東大に入るような秀才がいいと言っているが、個性の強い人ばかりの私の友人の中に、東大出など一人もいないことに気が付いた。世間的秀才は、しばしば退屈な人物なのである。

東大を出ると、サラリーマンとしては最高給取りになれる。しかし性格的魅力はない場合が多い、と私は偏見を持っている。しかし世間にやはり東大出が要ることは確実だ。

どんなできそこないの野菜にも独特の味がある。その味を引き出せば立派に存在の意味がある」

うーん、やはりそうか。東大では「できる奴は官僚か、学者を目指す。民間に行くのはクズ」だそうだ。

まさかと思って志位和夫のサイトを見たら「東京大学工学部物理工学科卒業」とあった。工学部物理工学科とは何か。東大のサイトから。

<私たちが追い求めているのは、流行りの技術や5年後に色褪せてしまう発見ではありません。深遠な物理から立ち上がってくるたくさんの可能性の種が、物理工学の世界には眠っています。物理工学科は、世界になかった新しい物理を生み出す現場なのです。

世界中が社会的閉塞感や限界を感じている現代、自然界の成り立ちを根本から説明し直し、その上で革新的な価値を創造する物理工学的思考は、人類に最も待望される考え方に他なりません。

その研究はやがて、想像を超えた未来に私たちを連れていくことになるでしょう>

まるでマルクス主義だな。「想像を超えた未来」って支那のような共産主義独裁国なのか。発達障害「できそこないの野菜」には捨てるしかないものもある。

■4月14日(木)、朝6:00は室温18度、小雨、生暖かくて梅雨みたい、散歩不可。

情報分析は大切だ。常に真実を探り、言論行動を決めていく。キヤノングローバル戦略研究所研究主幹・栗原潤氏の論考4/8から。

<「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第84号(2016年4月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない。筆者が接した情報や文献を1)マクロ経済、2)資源・エネルギー、環境、3)外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

先月初旬、東日本大震災5周年を迎える直前の石巻を訪れた。復興を完了した地区・分野と未だ苦境に喘ぐ地区・分野が混在する現状を直接目にして沈思せざるを得ない。

バーナンキ前米連銀議長は「地震学者は多数の微震よりも一つの大地震から多くを学ぶ。同様に30年代の大恐慌は学ぶべき重要な機会を提供する」と、代表的な論文の冒頭で語った。(『大恐慌論』2013年所収)

だが、我々は果たして「3.11」から多く学んだのであろうか? 地震学者に限らず、政治経済学者や科学者、そして政策担当者や我々一般市民が今一度省察する必要があろう。

歴史に興味の有る方はご存知の通り、世界一周を初めて経験した日本人は江戸時代の石巻の船乗りだ。出航直後に彼等は嵐に遭い難破民となり、ロシア船乗船の4人が西回りで世界一周し、約12年後に石巻に戻る。彼等との縁深い観音寺も「3.11」で本堂や山門等が全壊したと聞き胸が痛む。

この世界一周を記録した本『環海異聞』の中で、著者である大槻玄沢先生は彼等を"野陋無識(ヤロウムシキ)"と批判している。

誤解を招来する危険を覚悟で私見を述べると、真の意味で"野陋無識"なのは鎖国に固執した徳川幕府だ。当時の世界情勢を俯瞰すれば、幕府開闢時、黄金期にあったオランダは、それ以降、航海条例や英蘭戦争、更にはナポレオン戦争を経て19世紀初頭には既に国力を消耗していたのだ。かくして幕府の"野陋無識"について疑問は尽きない。例えば――

1)19世紀初頭の海上覇権が英国に移った事態を、なぜ幕府は理解出来なかったのか? 1820年、英国の外洋航行能力の世界シェアは42%に達していた。

2)18世紀末から19世紀初頭にかけて、オランダ及びその植民地が危険な状況にあった事実を日本は如何なる形で認識していたのか?

3)19世紀中葉になっても、日本がオランダ語を学び続けたのはなぜか? 明らかに時代がPax Britannicaに移行した1816年に、蘭和辞典『ヅーフ・ハルマ』を編纂し、多くの優れた洋学者が当時のworking language(英語)、更には当時のlingua franca(仏語)よりも寧ろ蘭語を学び続けたのはなぜか?

こうした疑問に関して、一つの有益な視点を東京大学の松方冬子准教授が提供して下さっている。即ち、

「通詞は、オランダとの貿易が存続しなければ生計が成り立たなかった。自分たちの生活を守るため長崎でのオランダ貿易を存続させようと情報を操作することがあった。江戸の幕府にすべてをそのまま伝えたのでは、幕府とオランダ人の間に軋轢が生じて大問題になるかもしれない。彼らは、オランダ人ではなく、自分たちを守るために情報を操作した」(『オランダ風説書: 「鎖国」日本に語られた「世界」』2010年)。

昔も今も警戒すべきは、海外と常に接していながらその情報を正確に理解・伝達出来ない"通詞"である>(以上)

大槻玄沢著 『環海異聞』文化4(1807)年について国立公文書館ではこう説明している。

<『環海異聞』は、レザーノフ来航の際に帰国した津太夫(つだゆう)ほか漂流者の見聞を蘭学者の大槻茂質(おおつきしげかた、通称は玄沢)がまとめたもの。文化4年(1807)成立。全16冊。

寛政5年(1793)11月に石巻港(宮城県石巻市)を出た津太夫の船は、翌年アリューシャン列島の島に漂着。ロシアに8ヶ年滞留したのち、ロシア残留を希望する6名を除く津太夫ら4名が、レザーノフに伴われて、世界周航をめざすクルーゼンシュテルン提督の船に乗り込みました。

聖ペテルスブルグの外港を出帆した船は、大西洋を横断し、マゼラン海峡、ハワイ、カムチャッカを経て長崎に至りました。津太夫らは世界を船で一周したことになり、書名もこれに由来しています。本書はロシアの社会や風俗等を絵入りで紹介するほか、長崎における日露間のやりとりについても記しています。

*アヘン戦争の戦慄

(幕府の鎖国政策により)オランダを除く西欧諸国に対する徹底排除の政策がとられるなか、漂流民の送還を機に通商を求めて浦賀沖に現れたアメリカ船モリソン号が砲撃を受けて退去を余儀なくされ(1837年、モリソン号事件)、このような幕府の姿勢を批判した高野長英・渡辺崋山らもまた罰せられました(1839年、蛮社の獄)。

幕府は江戸近海の防備体制を再検討し、長崎の町年寄で洋式砲術を学んだ高島秋帆に徳丸が原(東京都板橋区高島平)で演習を行わせるなど海防と軍事力の充実を図りますが、特段の成果を見ないまま、「アヘン戦争の衝撃」によって政策の変更を迫られることになります。

アへン戦争は、アへンの密輸を禁じる清国政府がイギリス商人が持ち込む大量のアヘンを焼却したことに対してイギリスが反発、強大な軍事力を行使した戦争(1840-42)。

惨敗した清国は1842年、巨額の賠償金や香港の割譲、領事裁判権等を内容とする南京条約を締結して中国半植民地化への道を開きました。

このようなイギリスの圧倒的軍事力は、日本の幕府当局者や全国の知識人に大きな衝撃を与えました。天保13年(1842)7月、幕府は異国船打払令をより穏便な薪水給与令に改め、異国船来航の折は薪(燃料)や食料、水を与えて引き取らせることとしました>(以上)

栗原氏は「幕府の"野陋無識"、通詞の情報操作」が世界情勢判断を誤らせ、国政を誤らせたと言うのだが、まるで幕府や日本人が1639年の鎖国の完成以来「泰平の眠り」で眠りこけていたのかどうか。

林子平がロシアの脅威を説き『海国兵談』などの著作を著し「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせたのは1786年である。明治維新の100年前だ。

「日本人の歴史教科書」に年代別外国船来航・目撃件数が記載されている。

1778〜79:1、1780〜89:1で、この頃は外国船を見ることはまずなかった。1790〜99:7、これにはロシア使節ラックスマンの来航が含まれている。林子平は見事にこれを予見していたのだから大したものだ。1800〜09:11で、幕末の1840〜49:63である。

幕府は少なくとも1786年には外国からの危機がひたひたと押し寄せそうなことを承知していたと見るのが自然だろう。1778〜1852年の「目撃された船の国籍」はイギリス31、ロシア18、アメリカ16、フランス8など。これが列強なのだと警戒心を強め、海防を強化、アヘン戦争の15年前の1825年には異国船打ち払い令を出している。

幕府は拙い点もあったろうが、"野陋無識"、野蛮なバカではなかった。1863年8月の薩英戦争はこうだった。

<当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は

「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している。

本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から(生麦事件で)多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している>(ウィキ)

日露戦争で観戦武官を務めたイギリス軍将校はこの薩英戦争に参加しており、皇軍の薩摩出身将校に「這う這うの体で逃げた」と語っている。

<損害

イギリス軍:戦死13名、負傷者50名、負傷者の死亡7人、艦船大破1隻中破2隻

薩摩藩

砲台の戦死1名、負傷者9名、大砲8門、弾薬庫x2市街の死傷者9人> (ウィキ)

小生はバカだから小さなオツムで事実真実に迫ろうとする。インテリは自分に自信があり自分の価値観は絶対正しいと目が曇っているから頓珍漢になる。ルーピー鳩山も東大出だ。

栗原氏は京大大学院修士課程修了(農林経済学専攻)。京大出も発達障害かどうかは知らないが、いささか"野陋無識"の気があるのではないか。
                              (2016/4/14)


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