2016年04月24日

◆日本の憲法成立の実情

加瀬 英明



これは独立なき供与である

敗戦のすぐ翌年に、マッカーサー総司令部の25人の部員が、日本国憲法案を僅か7日間でつくった。

なかの1人のユダヤ人青年が、「法律の専門家を加えてほしい」と求めたところ、その場で外された。

部員は全員がズブのシロウトで、憲法はおろか、法律の専門家が1人もいなかった。

そのうえで、ホイットニー少将が日本国憲法案を東京白金(しろかね)の外相公邸で、吉田茂外相に手交して、「日本政府がこの原案を呑まなければ、天皇の一身の安全を、保障することができない」といって、威嚇した。

 ホイットニーの回想録

ホイットニーは回想録のなかで、「吉田は目を通すと、顔色がたちまち黒い雲によって包まれたように変わった」と、記している。

日本の憲法であるはずなのに、大急ぎで原案を日本語に慌てて訳したために、何よりも恥ずかしいことに、日本語が誤っている。

日本国憲法の前文を、読んでいただきたい。

「われらとわれらの子孫」は何を指すのか

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、この憲法を確定する」と、始まっている。

翻訳調だ。何と長たらしく、読みづらいものか。

このなかの「われらとわれら」は、いったい、誰を指しているのだろうか?

仮に「太郎と花子は自転車に乗って、われわれのために菓子を買いに行った」という文章があったとしよう。「われわれ」が太郎と花子を指していないことは、明らかである。

日本国憲法の前文にある「われら」が、日本国民であるはずがない。ところが、前文を最後まで読んでも、「われらとわれらの子孫」が、いったい誰なのか、説明がない。

まるで、誰かがどこか陰に隠れているようで、不気味だ。

 平和を愛する諸国民の実情

「われら」が誰なのか、さっぱり分からないから、日本語として意味をなしていない。

さらに、前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という、文言がある。

この「われら」も、日本国民でありえない。

憲法の制定の経緯からいって、「われら」というのは、連合国の国民のことなのだろうか。「アメリカ国民とその子孫のために」と読むと、よく理解することができる。

かりに、中学校の公民の授業中に、生徒が手を挙げて、「センセー! この前文のなかに、『日本国民はわれらとわれらの子孫のために』と書いてありますが、この『われら』とは、いったい誰のことなのでしようか?」と質問したら、どうなるか。答えにつまって、立ち往生するにちがいない。

 主語をきちんと定めると明快

日本国憲法の原文は、英語だ。原文で読むと、きわめて明快だ。「We,the Japanese people‥‥」といって、始まっている。

「われら日本国民は‥‥われらとわれらの子孫のために」と訳すればよかったが、それではあまりにも翻訳臭が強くなってしまうので、きっと出だしの「われら」を、省いてしまったのだろう。だが、「日本国民」の上に「われら」を入れなければ、英文和訳の答案だったら、落第である。

せめて、憲法は正しい日本語で、書いてもらいたい。憲法の前文が判じものであるのは、日本の尊厳にかかわることだ。

この他にも、現憲法には衆参両院の選挙とも、「総選挙」と定めているのをはじめ、誤まりが多い。

このような憲法を、まるで御神体のように崇めているのは、異常なことだ。

憲法がいい加減だから、戦後の日本は何ごとについても、真剣味を欠いた国となってしまったのだろう。

 独立国とは何か

もし、日本が国家であるならば、自分の手で作った憲法を、持たなければならない。

占領下の日本は、自国の国旗を掲げることすら、許されなかった。

日本だけに「自主憲法」という言葉がある。このような言葉は、世界に他に存在しない。

敗戦の翌年3月に、閣議が憲法改正政府草案を承認したときの模様が、幣原内閣の厚生大臣で、のちに首相となった芦田均氏の日記に、描かれている。

「閣議終了の直前、幣原首相は特に発言を求め、次のようにいわれた。『かような憲法草案を受諾することは、極めて重大な責任である。おそらく、子々孫々に至るまでの責任であろうと思う。この案を発表すれば、一部の者は喝采するであろうが、また一部の者は沈黙を守るであろう。

しかし、深く心中、われらの態度に対して憤激を抱くに違いない』閣僚の中には、涙をふいたものが多かった。」

 現憲法は涙のなかに、成立した。

アメリカの意図は明白
 アメリカは日本を従属させるために、憲法によって日本を完全に非武装化した。ある国を属領とする時には、まず国防権を奪う。

「日本国憲法」は制定されてから、もう70年にわたって、日本に居座っている。

人間生活では、あらゆるものが相対的なものであって、流動している。したがって、人が状況に合わせてゆかねばならない。憲法も生活の道具の1つでしかない。

日本人は素早く動くことが、苦手なのだ。

私は日本が“座る文化”であるのに対して、ユダヤ・キリスト・イスラム社会が“動く文化”だということが、その裏にあると思う。

ユダヤ教からキリスト教が生まれ、ユダヤ・キリスト教の母胎から、さらにイスラム教が生まれた。

日本には、「神が鎮まっている」という言葉がある。日本の神は静的なのだ。

 神の「鎮座」の意味

神が「鎮まる」という表現は、日本だけのものだ。日本では神は「鎮座」しているが、ユダヤ・キリスト・イスラムの神は、能動的な神だ。

西洋の神は、ギリシア語で「空気」「息」を意味する、「プノイマ」だといわれる。一ヶ所に留まることがなく、風のようにつねに動いている。

「ダイナミック」の語源は、ギリシャ神話の神の一つである、「デュナミス」に発している。

日本には「座」という、言葉がある。「社長の座」から、「妻の座」まである。みな、それぞれ自分の「座」を持っていて、その座に対して敬意が払われる。社長も、妻も、その座から動くことなく、そこに鎮まっているという、考えかたがある。

日本ではトップに立つ者は、動かなくてもよいという考えが、強かった。頂点に“立つ者”というより、“座る者”といったほうがよかろう。

社長の座とか、妻の座とか言われるが、座に据(す)えられた人よりも、座のほうに値打ちがある。

私の仕事場に、ときどき約束なしに、「ちょっと、そこまで参りましたので、ご挨拶にお寄りしました」といって、現われる人がいる。突然こられて、困ることもある。

確めないで訪問するのは、相手がかならずその座にいることを、前提としているにちがいない。日本は「座る文化」なのだ。名刺か、菓子箱を置いてゆくが、座に対する供え物なのだろう。

 日本国憲法の公布がもたらすもの

日本国憲法が公布されてから、世界の大部分の国が憲法を何回も改めている。

日本人は動かない静的なものに対して、憧れを抱いている。

この意味では、日本国憲法は天皇制に似るようにすらなっている。いつの間にか、現憲法は天皇制に近い力を持つようになってしまった。



            
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