2016年05月07日

◆共有文化「演歌的叙情」の復活を

平井 修一



歌謡曲は子供の頃から結構好きだった。「明治一代女」は昭和10年(1935)
発表で、多分、母がしょっちゅう歌っていたからだろう、小生も物心つく
前から歌っていた。作詞:藤田まさと、作曲:大村能章、歌唱:新橋喜代
三とある。

(一)
浮いた浮いたと 浜町河岸に
浮かれ柳の 恥かしや
人目しのんで 小舟を出せば
すねた夜風が 邪魔をする

(二)
怨みますまい この世の事は
仕掛け花火に 似た命
もえて散る間に 舞台が変わる
まして女は なおさらに

実にいい歌詞、曲もいい。

昔は一流の作詞家、一流の作曲家、一流の歌手の合作でヒット曲が生まれ
た、と思う。ヒット曲は半年とか一年に一本だったから、長い期間、ラヂ
オから流れるので、子供から老人まで口ずさんだ。日本人の共有する文化
だった。まさしく「歌は世につれ世は歌につれ」だった。

これが何事も二流のようなシンガーソングライターが跋扈するようになっ
て、粗製乱造になり、老若男女が共有する文化ではなくなった、と思う。
みんな赤の他人みたいだ。

産経4/30「【書評倶楽部】ポップスは低級なのか『「歌」の精神史』山折
哲雄著 京セラ元会長・伊藤謙介」は実に良かった。

<本書は、演歌的叙情の喪失と復活をかかげる。まえがきで著者は次のよ
うに述べる。

〈いま、叙情が危ない。我々のこころの世界が乾き、叙情を受け容れる器
が水漏れをおこしているのではないか。叙情とは万葉以来の生命のリズム
のことだ・・・いまこそ「歌」の精神を取り戻す時ではないか〉

著者の次のような言葉が印象的だ。「クラシックは高級でポップスは低級
なのか。ベートーベンを聴かずにひばりばかり聴いている人間はほんとう
に低俗な人間であるのだろうか」

悲愁と哀感に彩られた叙情こそ、人間存在の根源に迫る。情感を失って砂
漠化しつつある現代にとって、叙情こそ重要なことではないかと私には思
えた>(以上)

ドライ≒砂漠≒一神教に対するに、日本はウェット≒瑞穂≒多神教だ。瑞々し
い情感を湛え、古来より多くの歌を生んできた。明治からの西洋由来の自
由詩は日本の風土に合わなかったのだろう、韻もないからほとんど流行ら
なかった。

昔から芸能は共有文化だった。通称「三勝半七」(さんかつはんしち)、
正式には「艶容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)。

<歌舞伎と人形浄瑠璃の演目。元禄時代に実際にあった茜屋半七と島の内
の遊女美濃屋三勝の心中事件を題材にしたもの。「今頃は半七さん。どこ
でどうしてござろうぞ・・・去年の夏の患いにいっそ死んでしもうたらこ
うした難儀はせぬものを」という有名なクドキを演じて苦しい胸の内を語
る>(ウィキ)

戦前まで大人の共有文化だったから、誰かが「今頃は半七さん」と言え
ば、他の人が「どこでどうしてござろうぞ」と引き受けただろう。

今はどうだろう、「忠臣蔵」は12月になるとテレビで放映するのだろう
か、「遅かりし由良之助」なんて今では死語だろう。

戦後、日本人は「古い上着よさようなら」と共有文化を捨てていき、それ
に代わるものを創れなかった。今はテンデンバラバラ、個人主義ばかりの
ような気がする。これでは淋しくはないか。まずは共有文化としての「演
歌的叙情」の復活に期待したい。(2016/5/5)



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