2016年05月10日

◆「温暖化外交」で地域の安定を

米本 昌平


昨年12月の国連気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)でパリ
協定が採択され、2020年以降の枠組みが定められた。これを受けて国内で
も温暖化対策の議論が始まっているが、ここで重要なのは、パリ協定は
1997年の京都議定書とはまったく異質のものである点である。

 ≪計画経済に等しい京都議定書≫

一言で言うと、欧州連合(EU)が主導した京都議定書は、先進国に対し
て経済活動に等しい二酸化炭素(CO2)排出量を国際法で縛るという、
計画経済を強いるのと同然の、国際合意としては異端のものであった。

これに対してパリ協定は、国際大義を掲げながら、対応策は主権国家が定
め国益を確保するという、ごく一般的な形の国際合意に戻ったのである。

パリ協定での国際大義とは、将来の気温上昇を産業革命前と比べて2度以
下に抑えることを目指し、できれば1・5度上昇以内の政策も採用すると
いう、高い目標を採用したことである。だが他方で、その対応策は、各国
が申し出るCO2削減策を軸とする政策パッケージに託されており、これ
はINDC(各国が自発的に約束する温暖化対策に寄与する政策)と呼ば
れている。

COP21までに条約事務局には160のINDCが提出されたが、その削減
数値を足し合わせても、気温上昇を2度以下には抑えられない。それを見
越してパリ協定は、極力早い時期にCO2総排出量を頭打ちにし、今世紀
中には化石燃料からのCO2排出をゼロにすることを目指すとしている。

高い理想を掲げながら、国益の壁に阻まれて目的が速やかには実現できな
いこの形は、温暖化問題が、核軍縮など他の外交課題と同型の問題に変質
したことを意味する。ことの善しあしは別にして、日本から見ると、先進
国だけがCO2削減を厳しく求められる事態からは解放され、温暖化対策
で広い自由度を得たことになる。

 ≪日本に欠けていたドクトリン≫

ともかく温暖化は不可避であり、CO2削減と併せて、温暖化への適応策
を講じる必要がある。この観点からパリ協定では、国境を越えた地域レベ
ルでの対応策の統合が強調されており、そのためには地域レベルの国際共
同研究と政策対話が必須となる。

この点で、日本が提出したINDCは、ひどく内向きで審議会答申を英訳
したものでしかない。ほんらい日本はずっと以前に、共通の温暖化対策の
原理を目指す、アジア外交のドクトリンを示しておくべきだったのだ。

これに対して中国が提出したINDCは、2009年のコペンハーゲン合意に
組み込む数値目標をすべて拒否して世界から非難をあびた悪イメージを払
拭するものであり、研究者や環境NGOはこの文書を精密に読み込んでいる。

多くの日本人は、中国の環境はひどく悪いと漠然と思っているだけだが、
恐らく中国の環境は14年が最悪であった。21世紀に入って中国経済は急
成長したが、そのエネルギーの大半を国内炭でまかなったため、CO2排
出量は急上昇し、07年にはアメリカを抜いて世界最大となった。

その後も急増は続き、現在では世界のCO2総排出量の26%を中国が占
めるまでになっている。CO2排出は中国の動向に大きく左右されるのだ。

 ≪伊勢志摩サミットで枠組み協議を≫

ただし近年、中国経済は7%前後の成長率に落ち着き、エネルギー効率の
高い産業構造への変換を進めている。それを象徴するのが、昨年10月の党
5中全会(党中央委員会第5回全体会議)で習近平総書記が強調した「新
常態」という中国経済の診断である。

このなかで温暖化問題として注目すべきは、資源や環境条件の制約がきわ
めて大きいことを認め、省資源・非化石燃料エネルギーへの移行を強化し
ていることである。

その結果、世界の化石燃料由来のCO2排出量は、15年の速報値ですで
に減少に転じている。専門誌の『ネイチャー・クライメイト・チェンジ』
16年1月号は、その要因は中国の石炭使用の減少である、とはっきり指摘
している。

国際緊張がある地域に、別途、環境問題でテーブルを設け、緊張緩和を図
ることは現代外交の常道である。それは、欧州全域を対象に冷戦時代に結
ばれた長距離越境大気汚染条約という非常に良い先行モデルがある。

アジアに限っても、南シナ海で対立する米中は、温暖化問題で協力するこ
とで合意したし、14年7月に習国家主席は朴槿恵韓国大統領と会談した
後、主要都市の大気汚染データをリアルタイムで韓国に提供している。

今や東アジアで、環境問題で首脳会議を呼びかけても、機は熟している。
理想を言えば、伊勢志摩の主要国首脳会議(サミット)に付帯する会合と
して、中国・インド・韓国のCO2排出主要国の責任者を招き、温暖化対
策の協力のための枠組みを討議するテーブルを用意することである。

外交には、多大な知的エネルギーが必要である。そのためにも日本は、東
アジアの地域研究をさらに深めていく必要がある。

彼らの2つの言い分は、おそらく安倍政権を独裁とみなし、それと民主主
義は矛盾しないと言いたいものと思われる。現在の選挙制度を用いている
限り、現政権を倒せない。それと同じ現象がドイツにあったという論理に
なろう。

思い出すのは、カール・シュミットのことである。法哲学者として、ヒト
ラーの知的参謀のような役割を果たしたこの人物は、日本の思想界にも甚
大な影響を及ぼした。丸山眞男は、自らの政治思想をつくりあげる際、常
に彼のことを意識した。一世を風靡(ふうび)した論文「超国家主義の論
理と心理」でシュミットの国家観を取りあげ、日本のそれと比較した。

 ≪安倍政権批判のための論理≫

また丸山の弟子である橋川文三は、自らの戦争体験を描く際、シュミット
のロマン主義批判を参考にした。シュミットの著作を読む。すると、自分
が戦前に経験した日本の文化と古典へのうなされるような情熱の根源を
すっきりと理解できる。だから貪(むさぼ)り読んだ。では日本の知的情
熱を支えたシュミットとは一体、何者なのか。

シュミットは言っている。私たちは自由主義と民主主義を分けなくてはい
けない。自由主義とは、議会制のことだ。議会では議員同士による自由で
多様な討論が行われる。だから議会制=「自由」主義と呼ぶ。確かに、多
様性といえば聞こえはよいだろう。だが実際は何にも「決められない政
治」ではないのか。多様性とは意見が分裂し、何も決定できないとも言え
るからだ。

ところが民主主義は違う。民主主義の特徴は多様性ではない。民意をまと
め、皆が同じ意見になることだ。そのためには強力な指導者、つまり意見
を集約する独裁者の登場が必要なのだ−シュミットはこう言っているので
ある。大衆化した民衆が、拍手喝采して同じ意見になだれ込む。多様性を
ほうり出すことで、ヒトラーは劇的に登場してきたのだ。自由主義ではな
く、民主主義によって。

だとすれば、この議論を握りしめ、現在のわが国政権を批判していること
は、一目瞭然のはずだ。安倍政権を批判するために、民主主義という言葉
をやすやすとほうり出し、あるいはシュミット流に読み替え、民主主義な
どよくないと言い募るわけだ。

 ≪善悪のレッテルを貼る傲慢さ≫

ところが今度は国会の周囲に眼を転じてみると、議事堂の前では議会制を
無視した人びとが、我こそは「民主主義なり」と絶叫しているではない
か。集団的自衛権をめぐって、一つの問題で意見が「同じ」人びとが議会
の外で熱狂し、それを民主主義であると言っているのだ。

以上から言えることは何か。それは、私たち日本人が「民主主義」という
言葉を、いかに状況にあわせ適当に使っているかということである。結
局、自ら思うところの正義にかなっているときは民主主義=善、自分の思
いどおりにならなければ、民主主義=悪として言葉を乱用しているのだ。

ところが民主主義は違う。民主主義の特徴は多様性ではない。民意をまと
め、皆が同じ意見になることだ。そのためには強力な指導者、つまり意見
を集約する独裁者の登場が必要なのだ−シュミットはこう言っているので
ある。大衆化した民衆が、拍手喝采して同じ意見になだれ込む。多様性を
ほうり出すことで、ヒトラーは劇的に登場してきたのだ。自由主義ではな
く、民主主義によって。

だとすれば、この議論を握りしめ、現在のわが国政権を批判していること
は、一目瞭然のはずだ。安倍政権を批判するために、民主主義という言葉
をやすやすとほうり出し、あるいはシュミット流に読み替え、民主主義な
どよくないと言い募るわけだ。

 ≪善悪のレッテルを貼る傲慢さ≫

ところが今度は国会の周囲に眼を転じてみると、議事堂の前では議会制を
無視した人びとが、我こそは「民主主義なり」と絶叫しているではない
か。集団的自衛権をめぐって、一つの問題で意見が「同じ」人びとが議会
の外で熱狂し、それを民主主義であると言っているのだ。

以上から言えることは何か。それは、私たち日本人が「民主主義」という
言葉を、いかに状況にあわせ適当に使っているかということである。結
局、自ら思うところの正義にかなっているときは民主主義=善、自分の思
いどおりにならなければ、民主主義=悪として言葉を乱用しているのだ。

ところが民主主義は違う。民主主義の特徴は多様性ではない。民意をまと
め、皆が同じ意見になることだ。そのためには強力な指導者、つまり意見
を集約する独裁者の登場が必要なのだ−シュミットはこう言っているので
ある。

大衆化した民衆が、拍手喝采して同じ意見になだれ込む。多様性をほうり
出すことで、ヒトラーは劇的に登場してきたのだ。自由主義ではなく、民
主主義によって。

だとすれば、この議論を握りしめ、現在のわが国政権を批判していること
は、一目瞭然のはずだ。安倍政権を批判するために、民主主義という言葉
をやすやすとほうり出し、あるいはシュミット流に読み替え、民主主義な
どよくないと言い募るわけだ。

 ≪善悪のレッテルを貼る傲慢さ≫

ところが今度は国会の周囲に眼を転じてみると、議事堂の前では議会制を
無視した人びとが、我こそは「民主主義なり」と絶叫しているではない
か。集団的自衛権をめぐって、一つの問題で意見が「同じ」人びとが議会
の外で熱狂し、それを民主主義であると言っているのだ。

以上から言えることは何か。それは、私たち日本人が「民主主義」という
言葉を、いかに状況にあわせ適当に使っているかということである。結
局、自ら思うところの正義にかなっているときは民主主義=善、自分の思
いどおりにならなければ、民主主義=悪として言葉を乱用しているのだ。

詳しい議論は、14日刊行の拙著『違和感の正体』(新潮新書)をご覧いた
だこう。現政権という一時的なものを否定したいからといって、先人が血
の滲(にじ)む思いを込めてきた言葉「民主主義」に善悪のレッテルを貼
るほど傲慢なことはない。この国では、やはりどうみても民主主義は、幽
霊のように存在が希薄で、浮足立ち、かすんでいるように思えてならない
のである。本当は誰ひとり民主主義など、信じていないのだ。

むしろ今こそ、安易に民主主義を否定したり絶叫したりせずに、議会制に
ついて、大衆社会について熟慮すべきではないのか。私は地に足を、つけ
続けたいと思う。日本大学教授・先崎彰容(東京大学客員教授・せんざき
 あきなか)
                産経ニュース【正論】2016.2.23
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