2016年05月14日

◆ビタミンB1を思う

渡部 亮次郎

1882(明治15)年12月、日本海軍のある軍艦は軍人397名を乗せて、東京
湾からニュージーランドに向け、272日の遠洋航海に出航した。

ところがこの航海中、誰一人として予想もしなかった大事件が降ってわい
た。なんと169名が「脚気」にかかり、うち25名が死んでしまったのだ。

この、洋上の大集団死亡という大事件は、当時の日本列島を震撼させた。
屈強な海の男達の死。なぜだ。この不慮の大事件が、ビタミンB1の欠乏に
よるものだとは、この時点ではまだ誰も気づいた人はいなかった。

ビタミンB1の存在が発見され、栄養学的、学術的な解明がなされたのは、
このあと28年間をまたなければならなかった。

しかし、かねてから軍人達の脚気の原因は、毎日食べる食事の内容にあり
とにらんでいた人に、高木兼寛という人物がいた。彼は当時、海軍にあっ
て「軍医大監」という要職にいた。

高木兼寛(たかぎ かねひろ)

宮崎県高岡町穆佐(むかさ)に生まれ、イギリスに留学し帰国後、難病と
いわれた脚気病の予防法の発見を始めとして日本の医学会に多大な貢献を
した研究の人。

慈恵会医科大学の創設、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大
造営などの数々の偉業を成しとげた。

<白米食から麦飯に替えて海軍の脚気を追放。1888(明治21)年、日本で
初の医学博士号を受ける。>(1849-1920)(広辞苑)

高木軍医大監は、この事件をつぶさに調査した結果、次の航海で軍艦乗組
員を対象に大規模な "栄養実験" を行うことによって、脚気の正体を見極
めようと決意した。

脚気による集団死亡事件から2年後の1884(明治17)年、こんどは軍艦
「筑波」を使って、事件が起こった軍艦と同一コースをたどった実験が始
まった。

高木大監自らもその軍艦に乗りこみ、兵士達と起居、食事を共にした。高
木まず、乗組員の毎日の食事に大幅な改善を加えた。これまでの艦の食事
は、どちらかというと栄養のバランスというものを考える余地がなく、た
だ食べればよいといった貧しい「和食」だった。

高木は思い切って「洋食」に近いものに切り替えた。牛乳やたんぱく質、
野菜の多いメニューだ。よい結果が明らかに出てきた。287日の航海の間
に、おそれていた脚気患者はわずか14名出たのみで、それも軽症の者ばか
り。死者は1人も出なかったのだ。

高木軍医大監は快哉を叫んだ。「オレの考えは間違っていなかった」と。
以上の実験的事実に基づいて、日本海軍は、そののち「兵食」を改革した。

内容は白い米飯を減らし、かわりにパンと牛乳を加え、たんぱく質と野菜
を必ず食事に取り入れることで、全軍の脚気患者の発生率を激減させるこ
とに成功した。

一躍、高木軍医大監の名が世間に知れ渡った。今日では、脚気という病気
はこのように、明治の中期頃までは、大きな国家的な命題でもあったわ
け。皇后陛下も脚気を患って困っておられたが、高木説に従われて快癒さ
れた。明治天皇は高木を信頼され、何度も陪食された。

この頃、陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)はドイツのパスツール説に従い
「脚気細菌説」を唱え続けたばかりか、高木を理論不足と非難し続けた。

脚気にならないためには、たんぱく質や野菜を食事に取り入れることが有
効であることはわかったけれど、それらの食品の含有する栄養素の正体に
ついては、ほとんど解明されていなかった。これは前にも触れた通り。

栄養学の研究は、ヨーロッパでは19世紀の半ば頃から盛んに行われ、たん
ぱく質のほか、糖質、脂質、それに塩類などを加えて動物に食べさせる、
飼育試験が行われていた。

だが、完全な形で栄養を供給するには、動物であれ人間であれ、「何かが
足りない」 というところまでがようやくわかってきたにすぎなかった。
その何かとは、今日の近代栄養学ではあまりにも当たり前すぎる「ビタミ
ン」「ミネラル」のこと。当時はしかし、その存在すらつかめていなかっ
た。

日本でビタミン学者といえば、鈴木梅太郎博士。米ぬかの研究でスタート
した鈴木博士が、苦心の研究を経てビタミンB1を発見したのは1910年、明
治43年のこと。陸軍兵士が脚気で大量に死んだ日露戦争から5年が経って
いた。高木海軍軍医大監の快挙から、実に28年もかかっていた。

鈴木梅太郎博士は最初は「アベリ酸」として発表し、2年後に「オリザニ
ン」と名付けた。このネーミングは、稲の学名オリザ・サティウァからつ
けたものと伝えられている。

しかし世の中は皮肉なもので、鈴木博士の発見より1年遅い1911年、ポー
ランドのC・フンクという化学者が鈴木博士と同様の研究をしていて、米
ぬかのエキスを化学的に分析、「鳥の白米病に対する有効物質を分離し
た」と報告、これをビタミンと名付けてしまった。

ビタミンB1の発見者のさきがけとして鈴木梅太郎の名は不滅だが、発見し
た物質のネーミングは、あとからきたヨーロッパの学者に横取りされたよ
うな形になってしまった。

それにしても、言い方を換えれば、明治15年、洋上で脚気のため命を落と
した25名の兵士の死が、28年を経て、大切な微量栄養素の一つ、ビタミン
B1の発見につながったと言うべきで、その意味では彼らは尊い犠牲者とい
うべきだ。 (以上は栄養研究家 菅原明子さんのエッセーを参照)

私が思うには、日本人が宗教上などの理由から、4つ足動物を食べる習慣
の無かったことも原因にある。特に豚肉はビタミンB1が豊富だが、日本
人は明治天皇が牛肉を食べて見せるまでは絶対に4つ足を食さなかった

2002年3月、2Ch上で、脚気をめぐって、時ならぬ森鴎外論争がおこっ
たことがある。

<日露戦争は1905年。 ビタミンBが初めて発見されたのは1910年。欧米の
学会で細菌説が否定されたのはもっと後。 高木兼寛が、日露戦争以前に
玄米を食することにより脚気が防げると 発見したのはすばらしいことで
あるが、具体的理論に乏しかったのである。>

<でも、明治前期から「具体的事例」は山ほど出てたよ。 明治天皇も玄
米の効用には気付いていた。「別に毒でもないんだし、効用があるなら食
べさせておこうか。 理由は後で追及しよう」という姿勢をとらずプライ
ドのために自分達の頭の中での学説を優先させたし高木らを誹謗した。森
一派は有罪。>

<海軍がらみの病気と言えば、ビタミンC欠乏で起こる壊血病が有名です
が、ビタミン Cの発見はビタ ミンB1より後です。 これは、原因は不明な
がらも、野菜や果実ないしこれらの絞り汁で予防・治療が可能だとわかっ
て いたのと、壊血病を起こす動物が限られている事などの理由で、実験
ができなかったことが影響しているそうです。(治療法が確立していたた
め、「学術的興味」のための人体実験などはできなかった。)

「具体的理論」などにこだわって治療法の確立を遅らせるのは、本末転倒
でしょう。 海軍の軍医として、食餌の不良が壊血病のように致命的な疾
病の原因になりうるという認識を持って いた高木氏が、「栄養上の問
題」という仮説を立てたのは、ごく自然な事に思えます。

このときに「不足している」と仮定したもの(タンパク質だったか?)
は、結果的には誤りだった訳 ですが、何の仮説もなく闇雲に行動してい
た訳ではない。

そもそも「細菌説否定」もなにも、細菌が原因であるという事自体が、確
たる根拠を持たない一仮説 に過ぎないわけです。 当時、日本人医師達と
の対談で、コッホが「細菌が原因かどうかという検討の前に、診断法を確
立し て、『どういう状態なら脚気なのか』を確定するのが先ではない
か」というようなアドバイスをした と聞きます。

これも、確たる根拠のないまま、「とにかく細菌が原因」という思込
みで突っ走るの を危惧したためでしょう。>

渡部註:日本でしか罹患しない脚気だったが、江戸時代から「江戸わずら
い」と言われたように、脚気は東京の風土病と疑われた時期もあった。

<脚気に麦飯や玄米が有効だという知見そのものは、高木氏の 独創では
ないです。 高木氏の功績は、多数の患者を出した航海の記録などから、
「栄養不良ではないか」という仮説を立てるとともに、具体的な給食改革
案を提示し実証したところだと思います。

それはともかく、森林太郎という人が非難されているのは、彼が自力で脚
気の 治療法を確立できなかったからではない。>

<日露戦争時といえば、海軍から脚気が消えてから久しくたっており、陸
軍でも 地方では独自に麦飯給食などをしていたそうです。

経験的にとはいえ予防法が一応認められていた時期に、敢えてそれを否定
する がごとき方針を押し通し、多数の病者を出したというのは、とても
「ミス」な どというレベルではない、「未必の故意」による犯罪行為で
しょう。 >

<1905年当時は、ビタミンのような希少栄養素という概念が無かった。近
代的な医学というのは、まだ始まったばっかりで コッホとパスツール
が、細菌の発見→純粋培養による特定という 手法を編み出し、初めて病気
に対して、近代的なアプローチが、とられるようになったばかりだ。

だから、当時の医学では病気というのは病原菌が元で発生するもの以外に
対する ものに対しては全く無力。 当時は、癌でさえ、寄生虫か病原菌で
発生するものだとまじめに考えられていた時代であった。

いまでも、何の根拠も無い民間療法で完治してしまう人がいるように 統
計的に明らかな改善があったからといって そのやり方が正しいとは一概
に言えないのが医学。

統計結果を基に効果を推測するには、プラシーボ効果をかんがみた上で
その影響を除去して考えなければならない。 然るにプラシーボ効果に対
する実証的な研究がなされたのは1954年以降のこと。 それまで、医学で
は統計的なアプローチというのはあまり当てにならないものとされてい
た。>2006.05.07



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