2016年05月16日

◆モンゴル 考察  その@

浅野 勝人 (安保政策研究会理事長) 

〜白鵬 翔 と チンギス・ハーン〜

毎年、3月末日、大相撲春の巡業を告げる伊勢神宮奉納相撲が行われます。呼び物は伊勢神宮神苑で行われる、太刀持ち、露払いをしたがえた横綱の「手数(でず)入(い)り奉納」(土俵入り)です。

前夜は、横綱・白鵬を囲み、知人の奢りで鳥羽の料亭「まつむら」の松坂牛ステーキ食べ放題の恒例のパーティです。私が「白鵬翔激励の挨拶」をして乾杯の音頭をとるのが習わしになっています。

横綱とは、メインテーブルで隣同士になりますから、一晩、じっくり語り合う機会に恵まれます。年間を通して、私の一番の楽しみです。

一昨年は、1枚、60グラムの蕩(とろ)けるような松阪牛を、私が2枚食べる間に横綱は14枚平らげました。去年は、私も頑張って7枚。今年は、横綱から負け越しはダメ。8枚以上食べて勝ち越せとはっぱをかけられましたが、6枚でダウンしました。


一昨年のことでした。私の自著「融氷の旅」(青灯社)にも書きましたが、滅多なことでは語らない胸中の秘話を聞かせてくれました。

「私の祖父は、モンゴルの第9代大統領でした。祖父はクレムリンで行われたスターリンとの会談で、モンゴル国とモンゴル人を蔑視した度重なる発言に怒り心頭に達して「グルジア人(スターリンはグルジア生まれ)よりはマシでしょう」と応じました。烈火の如く怒り狂ったスターリンがさらに罵倒したため、スターリンにストレートパンチを食らわせて、銜えたパイプをふっ飛ばしてしまいました。

その場は事なきを得たのですが、後日、家族ともどもモスクワに呼び出されました。出向かないと国に災いが及びます。家族そろってモスクワに行きましたが、密かに家族をモンゴルに逃がして、一人残った祖父は粛清されました。あの時、自分は覚悟を決めて家族を逃がしてくれなかったら、今の私はありません。

さすがに、中央アジアからユーラシア大陸まで制覇したチンギス・ハーンの血を引く勇者の一族と感じ入りました。(融氷の旅、155頁)

今年は、相撲のことよりもモンゴル政府の農牧政策をめぐって議論が盛り上がりました。モンゴルの政治、経済の様子が話題になった際、横綱はスマホに入れて大事にしている祖父の写真を見せてくれました。
その折、白鵬本人が話したことですが、白鵬の首の右側に赤い痣(あざ)があります。チンギス・ハーンも射掛けられた矢の一本が、首の右側を掠(かす)めて傷跡が残ったのだそうです。「こどもの頃、友達からオマエはチンギス・ハーンの生まれ代わりだとよく言われた」そうです。彼は、宿命みたいなものを感じているなと思いました。


陳瞬臣 : チンギス・ハーンの一族

ジンギス・ハーンの生涯とその一族をめぐるモンゴルの興廃を読み解くには、朝日新聞に連載された陳舜臣著「チンギス・ハーンの一族。(1巻)―草原の覇者、(2巻)―中原を征く、(3巻)―滄海への道、(4巻)―斜陽に万里。集英社文庫」がいい。ただ日本人には馴染みにくい人名が数限りなく登場するので混乱させられます。詳しすぎるのが難点といえばむしろ難点です。

モンゴルの歴史は、12世紀中頃からぼんやりと、おぼろげながら透けて見えはじめます。1162年生まれのテムジンが草原に現れるのは、ボルジギン一族の頭目になった青年の姿です。テムジンは、ハーンの称号を取得したら、「チンギス」と名乗ることを若い頃から心に決めていました。チンギスとは「強力」を意味します。

テムジンが、すべてのモンゴル部族を平定して、部族連合からハーンに推戴され「チンギス・ハーン」を名乗ったのは1206年です。

生まれた年については、諸説ありますが、「元史」の1162年説をとれば44才で大ハーン(皇帝)に就任したことになります。

チンギス・ハーンは「モンゴルは、モンゴルの血を流さない」を基本原則にしていましたが、刃向かう他民族、特に裏切りにはモンゴル人とモンゴル以外の民族を問わず、一草一木(広辞苑:一木一草ともいう)残さずに皆殺しにしました。首謀者には残虐極まりない刑が執行されました。

モンゴル馬を駆使する機動性豊かな騎馬隊は、死を恐れない勇猛果敢な兵士が先陣をつとめ、瞬く間に中央アジアを席巻(せっけん)し、中東、ロシア・ヨーロッパへ兵を進めました。チンギス・ハーンの大モンゴル帝国の出現です。

もともとモンゴルという呼び方には、はっきりした定義らしいものはない。チンギスのいうモンゴルは、むしろ「われわれ一族」というせまい意味だったようだ。(陳舜臣)

そんなせまい一族を基盤に、アジア大陸から、中東、ユーラシア大陸に及ぶ大帝国を築いた不世出の皇帝・大ハーンのお墓が、今日、何処にあるのかわからないのは、摩訶不思議なことだとは思いませんか。

山東省曲阜の孔子を祀った孔廟・孔府・孔林の「三孔」を訪(たず)ねた折、中国各地からやってきた観光客の数に圧倒されました。

もし、チンギス・ハーンの眠るお墓がモンゴル国内のどこかにあったら、世界各地からひと目見たいと訪(おとず)れる歴史の好事家(こうずか)があとを絶たたないでしょう。
「チンギス・ハーンの一族」のあとがきに「1991年には、チンギス・ハーンの墓を探すと称して、江上波男先生の驥尾(きび)に付して、モンゴルじゅうをあるきまわった」(陳瞬臣)とあります。さすがです。


チンギス・ハーンは、1227年7月12日(陰暦)、西夏(タングート)討伐戦に出陣の折、陣中で病死しました。しかも、西夏が降伏した因縁の日でした。この時、モンゴル軍は六盤山(ろくばんざん)に陣を敷いていました。ですから、チンギス・ハーンが亡くなった六盤山はモンゴルの人たちにとって、特別な場所のようです。中国・甘粛省の東部から寧夏回族自治区の最南端にかけて連なる山脈の名前ですが、六盤山そのものは山脈の中央付近にあります。

遺骸はケルレン河上流に埋葬されましたが、その直後に周辺を騎馬隊が駆け巡り、埋葬地点がわからなくなったといわれています。
モンゴルには墳丘をつくる習慣がありませんから、困ったことに目標となる目印が何もありません。

チンギス・ハーンと皇后ボルテの四男、トゥルイの正妻、ソルカグタニ(ケレント部族出身。4代モンケ、5代フビライ、二人の皇帝を生んだ母親)の遺骸は、ケルレン河上流の亡夫トゥルイの墓地の隣りに埋葬されました。そこはチンギス・ハーンの墓地に近いとみられていますから、やはりチンギス・ハーンのお墓はその辺りということになりそうです。

ケルレン河は、チンギス・ハーンの故郷、ブルカン山で知られるヘンティ山脈を水源にモンゴル北東部の草原を縦断して中国・内モンゴル自治区のダライ・ノール湖(フルン湖)に注ぐ、全長1,264q、流域面積12万6,000㎢の河川です。この河の上・中流流域が若いテムジンの活動地帯でしたから、遺骸はふるさとに埋葬されたことになります。

上流のどこかの地点といっても、あまりに広すぎて、到底、手に負えそうもありません。素人考えでは、むしろトウルィ夫妻の墓から推測したらチンギス・ハーンの墓地に辿り着けそうに思うのですが、シロウトが考えることなど、当の昔に様々な専門家が調査、研究済みのことだろうと思います。(明後日に続く!)



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