2016年05月17日

◆モンゴル考察 ― そのA

浅野 勝人  (安保政策研究会 理事長)

草原の掟 ― 「兄弟はみな敵」

モンゴル族は、古来、末子相続を原則として、一族の規律を保ってきました。
第2代皇帝は、いささかの確執を伴ったものの、末子の4男・トウルィが、就任を熱望した3男・オコディに大ハーンの継承を譲ったため、親戚縁者間における血の雨を見ずに政権交代が実現しました。
3代皇帝は、オコディのひとり息子、グユクへの親子相続でした。
2代、3代とも比較的短命に終わり、政権は、本来、チンギス・ハーンから直接継承するはずであったトゥルイ家に返還されました。

大ハーンの地位が早晩めぐってくることを予測して、トゥルイ家では長男・モンケと次男・フビライを担ぐ勢力が政権を狙って密かに蠢動していました。もちろん、たとえ幼くても末子の4男・アリグブカが原則通りに継承すべきだと主張する勢力もあって、内情は複雑でした。けれども、フビライが骨肉の争いを避けて身を引いたため、モンケが第4代皇帝・大ハーンに就任しました。
ポスト・モンケをめぐるフビライとアリグブカの勝負は、次の局面に持ち越されて最終ラウンドを迎えます。


第4代大ハーン、皇帝モンケと実弟のフビライとの間に、不協和音が表面化するのは、フビライが雲南大理(中国・河北省と内モンゴルの境界一帯。大理は南詔(なんしょう)国の国都)討伐を平穏理に終え、その報告にカラコルム(モンゴル帝国首都)へ行った後のことと言われています。

モンテは、口にこそ出しませんが、「自分を滅亡させる力のあるのは、弟のフビライしかいない。あの漢人かぶれには油断すまい」と思っていました。だから、雲南討伐作戦を命じた折、フビライに人望が集まり過ぎないように、命令系統を二頭制にしました。総司令がフビライなのか、ウリャンハタイ将軍なのか、わざとはっきりさせないようにしていました。

このふたりの兄弟は、戦いの根本理念が異なっていました。
モンケはただ勝って相手を皆殺しにするのが真の勝利と考えていました。「逆らうものは徹底的に殺(や)るが、降(くだ)って従うものは生かして使え」というチンギス・カーンの教えを無視して、降った者も見境なく殺戮しました。従って、チンギス・ハーンの戦略を半分は踏襲し、半分は逸脱していたといえます。

フビライには、戦(いくさ)に勝つことによって民を救うのだという理想がありました。雲南大理攻めに際し、「不殺の令」を帛(きぬ)に書いて掲げ、素直に降った者は処刑しない。無辜の民には害を与えないというお触れを徹底しました。そして、一兵も失わずに無血占領に成功して大理城を手に入れました。

そのころ、モンケはフビライの報告を反芻(はんすう)していた。
戦術としては悪くない。だが、膺懲(ようちょう)(著者註:討ち懲らしめる)という目的は果たせなかったではないか。
―ゆっくり考えてみるか。
モンケは床几(しょうぎ)にもたれながら、そうひとりごちた。(陳舜臣)

私は、すぐさま頼朝・義経の兄弟が脳裏に浮かびました。まるでそっくりさんではないか。

チンギス・ハーンの孫、フビライとチンギスの弟の孫、タガチャルは、できるだけ殺戮を避けて戦さを収め、統治するという理念を同じくしていました。
ふたりは、兄の皇帝・モンテを倒して改革を断行するため、密かに連携します。
ところが、フビライとタガチャルが、モンケの指示で宋との戦いを進めている最中に、四川のモンゴル軍を指揮して合州(ごうしゅう)(重慶)討伐戦を決行していたモンケは、重慶付近の釣魚(ちょうぎょ)山の陣営で病死します。1259年、7月(陰暦)のことです。

モンケが死去すると、案の定、カラコルムにいるモンケの腹心・アラムダルと燕(けい)京(きょう)(現在の北京)長官のドルジが連携してフビライ阻止、アリグブカ殿下の擁立を画策します。
モンゴル帝国は、第4代皇帝モンケの死によって、真っ二つに割れました。

1260年3月(陰暦)、国の東半分に勢力を固めていたフビライは、本拠地の開平府(かいへいふ)(金(きん)蓮(れん)川(せん)というところに築いた城郭。北京の北約250キロの内モンゴル自治区。のちに元王朝の首都・大都<現在の北京>と並んで上都(じょうと)と呼ばれ、夏季の首都とされた)で、第5代皇帝の就任式を行い大ハーンとなります。その翌月には、モンゴル帝国の国都、カラコルムで、西半分を抑えているアリクブカが皇帝に即位して、モンゴル帝国に二人の皇帝が誕生しました。

ちょっと整理しますと、チンギス・ハーンと皇后ボルテの3男、「オコディ」が2代皇帝、その子「グユク」(チンギス・ハーンの孫)が3代皇帝、チンギス・ハーンとボルテの4男トゥルイの長男「モンケ」が4代皇帝、次男「フビライ」と 4男「アリクブカ」(いずれもチンギス・ハーンの孫)が5代皇帝をめぐって骨肉の争いという構図です。

「兄弟はみな敵だというのが草原の掟である」(陳舜臣)
官僚化しているアリグブカの「西方軍」は、野戦に次ぐ野戦で鍛えられているフビライ・タガチャの「東方軍」に各地の戦闘で敗れ、4年後の1264年、アリグブカはフビライに投降します。
これにより、1世紀続いた親戚縁者の殺し合いは終止符が打たれましたが、西域から中央アジアの草原を抑えていた主力の軍事力が消滅して、ロシアからヨーロッパまで勢力を伸ばしていた大モンゴル帝国は実質的に内部瓦解します。(続く)



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