2016年05月18日

モンゴル考察 ― そのB

浅野 勝人 (安保政策研究会理事長)
 


「元」 初代皇帝世祖フビライ と 文天祥

実権を握った5代皇帝、フビライ大ハーンは、カラコルムを捨てて、燕京(現在の北京)を「大都」と改名して国都とし、宋(正確には南宋)との戦いに集中します。

一方、宋もアリグブカがフビライに投降した1264年に皇帝・理宗が逝去し、度宗(たくそう)皇帝に世代替わりしましたから、モンゴル、中国とも新しい時代を迎えていました。

フビライは、1271年11月、国号を「元」と定め、元王朝の建国を宣言しました。そして、モンゴル5代皇帝が、中国・元の初代皇帝に就任し、世祖フビライとなりました。しかし、名実ともに中原の覇者となるためには、南宋を壊滅させなければなりません。

頼りのタガチャは若死にしたものの、南宋討伐戦の総司令となったバヤンがフビライの右腕となりました。

バヤンは中国の歴史に明るかった。愛読書を聞かれると、武人なので一応兵法書と答えることにしている。だが、「史記」「漢書」「三国志」のほうを、好んで読んだ。じつをいうと、歴史よりも文学の方が好きであった。杜甫や李白、そして王安石の文集も熟読していたのである。(陳舜臣)

バヤンは抵抗する敵は、皆殺しにしましたが、服従した者は殺しませんでした。帰順した能力のある漢人は南宋時代よりも高い地位を与えられて、元王朝に抱(かか)えられた例はいくらもあります。バヤンはフビライの漢化政策に従ったというよりは、自らの思想を実践した人でした。フビライは人材に次々と恵まれた運のいい統領でした。


南宋にも負け戦を覚悟で、城を枕に最後の一兵まで戦った古武士はいるにはいましたが、多くの武人、文人は強力な元軍の前に先を競って帰順するありさまでした。4才で即位(1274年)して5年と経たない南宋7代皇帝・趙(ちょう)㬎(けん)が元に降って南宋は滅びました。首都・臨安は(現在の杭州)は血を流さずに陥落しました。(1279年) 

「チンギス・ハーンの一族」4巻には、随所に興味深いエピソードがちりばめられています。歴史の推移を教えられるだけでなく、フィクッション構成の面白い小説を読んでいるようなノンフィクッション長編絵巻です。
その中から、陳舜臣が力こぶを入れて書いた南宋の右(う)丞相(しょうしょう)(現在の首相クラスの行政官)・文天祥をピックアップします。


文天祥は、「南宋に人なし」と言ったフビライが、生かして味方にしたかった唯一の人物ですが、誉れ高い宋の遺臣として最後まで帰順しなかった士丈夫です。

降伏を潔(いさぎよ)しとしなかった文天祥は、南へ逃れて文人ながらゲリラ戦を展開して元に抵抗します。孤立無援となって遂に捕らえられ、身柄を大都に移されます。そして、狭い地下牢に3年有余閉じ込められて説得されますが、帰順に応じません。

堪りかねた皇帝・フビライは、1282年の暮、文天祥と接見します。
祖父、チンギス・ハーンが燕京を陥(おと)した年(1215年)に生まれ、68才となったフビライが、47才の文天祥に語り掛けます。
文天祥は左目が失明して体力はボロボロですが、気力は衰えていません。


皇帝は漢語で言った。

「まだ国が亡びていないのに、敵に降るのは、あるいは問題かもしれぬ。しかし、今は宋も亡びた。まして3年も牢に入っておれば元(げん)に降っても、誰も逆臣とは言わぬ。わが元はそちを中書丞相(著者註:首相級ポスト)に登用しよう」

「私は宋が亡びましても、宋の臣として死ぬつもりでございます」

「中書丞相職が気に入らぬのなら、枢密使(著者註:シビリアンの軍最高ポスト)ではどうだろうか?」
「私が欲しいのは、ただ一死でございます」

文天祥は、はじめて頭を下げた。
1282年12月9日朝。文天祥の処刑は公開された。

漢人の検屍官は、「今日は犯罪者を処刑するのではない。文天祥は宋の丞相であり、宋が亡びたいま、一死を賜りたいと我が大元皇帝陛下に請い、それが許されたのである。」と朗々と述べ、刑吏が執行した。
最後まで従容(しょうよう)(著者註:ゆったりと落ち着いたさま)とした文天祥の態度に、人々は心を打たれた。(陳舜臣の原文抜粋)


文天祥は、死ぬことを念頭に獄中で必死に生きながらえました。
闘い抜いて、最後はフビライによって処刑されることだけが、宋に節を全うした文天祥の勝利だからです。だから早く死んで楽になりたいのが本心ではありましたが、自決するわけにはいきません。
それはフビライに負けることになるからでした。


北走 ― 元王朝の消滅
元の基盤固めをしたフビライには、西方対策が残っていましたが、「ナヤン・ハダンの乱」を難なく収めて全て平定し、1292年、遠征を終えました。晩年のフビライにとって思い通りにならなかったのは、日本遠征くらいものです。

第一次遠征(文永の役、1274年)では、3〜4万の軍勢を派遣すれば簡単に征服できると日本の戦力を見くびっていました。日本は鎌倉中期にあたり、すでに武家社会は確立されていましたから、防戦体制も組織的で強固でした。このため、モンゴル・高麗連合軍は手痛い敗北を窮して、這(ほ)う這(ほ)うの体で逃げ帰りました。

第二次遠征(弘安の役、1281年)は、
高麗から1000隻の軍船に4万。寧波から江南軍が3,000隻の軍船に10万の兵士を載せて日本へ攻めてきました。ところが7月30日の夜半、北九州は台風圏内に入り元の戦船はほとんど沈没し、大勢の溺死者を出しました。世に言われる「神風」が吹荒れました。

「元史」の「日本伝」は帰還者3名と極端ですが、「世祖本紀」には「十のうち一、二を残す」とありますから、8割余が溺死、戦死、捕虜となって、多くの犠牲者を出し、元軍の大敗に終わりました。

徳川光圀が編纂した「大日本史」の中では、二度にわたった蒙古襲来を「元寇(げんこう)」(元という外敵)と呼称しています。

1294年1月19日、フビライは、亡き皇太子・チンキムの子、テムルを後継指名して死にました。1215年生まれですから享年80才。(正確には満79才)

フビライの孫、2代目の皇帝、成宗・テムルの時世に、「元朝」は早くも陰りが見え始めます。フビライが後事を託したバヤンがフビライの後を追うように2年後に死に、支柱を失います。

病弱を理由に2代皇帝に就任しなかった賢兄・ガマラも重い病気にかかって亡くなりました。テムルは、左右両腕を失って、政権は急速に衰えました。

世祖・フビライの死(1294年)から、1368年、明の朱元璋に追われて、最後の皇帝ドコンテムルこと順帝が北へ逃げて、元王朝が滅亡するまで74年間。その間、10人の皇帝が入れ代わり立ち代わり帝位についていますが、いずれも時々の権臣の傀儡でしか過ぎませんでした。

「北走」した順帝は、モンゴルに戻って恵帝と称しました。

フビライが、1271年、「元」という国号を定めて王朝を創設して以来、1368年に順帝が北走するまで、97年続いた政権ということになります。

「元という国は、世祖フビライの死によってもう亡びたようなものです。その滅亡が70年ほどのびたのは、僥倖(ぎょうこう)(著者註:偶然の幸運)でしたね」と楊維驍ヘ言った。(陳舜臣)

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