2016年05月25日

◆失踪したアイ・ジョージ

渡部 亮次郎


演歌、ムード歌謡、ラテン、ポピュラー、民謡等幅広いジャンルの歌を類稀なる歌唱力で歌い上げるその姿は圧巻であった。さらに、この時代の人には珍しく、外国語の発音が完璧である。これは香港、上海、大連など外地で育ったことも関係するだろうが、現在でもここまで完璧な発音で歌う日本人歌手はまずいない。

「硝子のジョニー」「赤いグラス」などを引っさげてNHKの「紅白」にも12回連続出場したアイ・ジョージ。見なくなったな、とおもったら、借金で失踪してから16年経つという、


1972年、長年所属していたテイチクからコロムビアへ移籍(〜78年?)。この頃から実業家としての活動がさかんになり、沖縄国際海洋博覧会を見込んで作ったレストラン、八丈島のホテル、六本木のメキシコ料理店などを経営するものすべて失敗に終り、十数億の借金を抱えることになった。

1987年、借金をようやく返し終えたこともあり、NECアベニューへ移籍し、本格的に歌手活動を再開するも、同年末に金銭トラブルを起こす。

そのこともありメディア出演はさらに減っていき、1996年暮れテレビ東京の懐メロ番組に出演したのが現時点で最後のテレビ出演となっている。

あまりにも多い金銭トラブルのために日本での芸能活動が困難になったからではないかと一部では言われている。

1998年頃、永六輔がジョージを探すが、見つけ出すことは出来なかった。友人である坂本スミ子のもとには今も時折電話がかかってくることはあるが、連絡先を聞くと口ごもるという。

現在はアメリカ合衆国ロサンゼルス市在住でロスと日本を往復して生活を送っているという噂があるものの真偽は不明。

アイ・ジョージ(1933年9月27日 - )本名、石松 譲冶(いしまつ じょうじ)。芸名の由来は本名の石松譲治から苗字のイニシャル(「I」)から取ってアイ・ジョージとしている。

1933(昭和8)年、香港(当時の英国領)生まれ。父は石油会社の役員、母はスペイン系フィリピン人。

3歳の頃に母を亡くす。父の仕事の都合で、香港、大連、上海、マニラを転々としながらも不自由ない裕福な幼少時代を過ごす。

1959年12月、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演の前座歌手となり、改めてアイ・ジョージとしてデビュー。同じ前座だった坂本スミ子共々大いに売り出す。。

NHK紅白歌合戦には1960年から1971年まで12回連続出場。

1961年にはドドンパ・ブームを起こす。フィリピン起源のオフ・ビート・チャチャチャを、比人バンドが持ち込み、それにジョージの仲間であるクラブアローのバンドマンが目を付け、計画的に流行させたものである。ただ、三拍目を三連音符に換え、ドドンパと命名したのはジョージである。このことを考慮すると、アイ・ジョージはドドンパの生みの親
といっても過言ではない。

1963年、民音公演で「戦友」を反戦の意味合いで歌唱。これによって当時の学生が反戦の象徴曲として歌い始め、やがて当時軍人だった世代も巻き込み、軍歌ブームが起きる。

外国曲を中心に歌っていたが、オリジナル曲では1961年には自作曲「硝子のジョニー」、1965年には純然たる歌謡曲「赤いグラス」を志摩ちなみとのコンビで歌い、ヒットさせている。特に「赤いグラス」はカラオケのデュエット曲の定番として長年親しまれている。

1963年10月8日から10日にかけて日本人初となるアメリカ合衆国ニューヨーク市のカーネギー・ホール公演を果たす。当時は実力充分な一流歌手で無ければ、容易に舞台に立つことが出来ず、カーネギーの舞台に立つことは素晴らしい名誉だった。

当時は大成功と報道されたが、実際のところ、内容は素晴らしかったが興行的には失敗に終わった。

他にも1967年にはソ連公演を果たすなど、「世界の流し」として活躍した。またこの年には富豪令嬢と結婚、一女を儲けるも1976年離婚した。原因はジョージの乱れた女性関係にあるとされる。

かくて借金に追われて失踪となる  (再掲)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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