2016年06月01日

◆九州の震災と日本の国民性

加藤 英明


 九州の熊本県から大分県まで、地震に襲われた。

 5年前の東北の大震災の時もそうだったが、私はすぐに宮沢賢治を思い
出した。

 私は小学生のころから、宮沢賢治を多くの友の1人としてきたが、いつ
のまにか大地震のニュースに接するたびに、賢治が頭に浮かぶようになった。

 宮沢賢治の人や自然への思いやり

 おそらく日本の作家のなかで賢治ほど人や、自然を思い遣って、やさし
かった人はいなかっただろう。

 賢治が生まれる2ヶ月前の明治29(1896)年6月に、東北が三陸
大津波に襲われて、岩手県だけで2万2千人以上が死んでいる。賢治が花
巻で生まれてすぐに、8月31日に大地震が起って、岩手県で数千人が生
命を失った。母のイチが生後4日目の賢治のうえに、覆いかぶさって守っ
ている。

 賢治の作品は生命へのいとおしさが、何より大きな特徴となっている。
作品のなかでは「かなしい」「さびしい」という2つの言葉が、どの言葉
よりも多く使われている。

 私は三陸大津波や、大地震の体験が、賢治の感性をつくっているにちが
いないと、思ってきた。

 関東大震災直後の作品

 関東大震災の15日後に『宗教風の恋』を書いているが、関東地方を
襲った大地震と津波によって、東京と8県の死者と行方不明者を合せる
と、14万人以上にのぼった。

 賢治は「なぜこんなにすきとほってきれいな気層のなかから、燃えて暗
いなやましいものをつかまへるか。信仰でしか得られないものを、なぜ人
間の中でしっかり捕へやうとするか。風はどうどう空で鳴ってるし、東京
の避難者たちはいまでもまいにち遁(に)げて来るのに、どうしておまへは
そんなに医(いや)される筈(はず)のない悲しみを、わざとあかるい空から
とるか」と、綴っている。

 賢治から学んだもの

 賢治は花巻で昭和8(1933)年に、病死した。その6ヶ月前の3月
に、東北が再び地震と津波によって襲われた。

 私は賢治によって、法華経を知るようになった。賢治から地涌菩薩と
か、無量寿仏という言葉や、「むずかすさ」(難しさ)という方言を、
習った。賢治の作品には方言が多く使われているが、人工的に造られた標
準語よりも、血が通っていることを教えられた。

 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は日本人の心根だ

 賢治の詩「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は学校教科書に載っているか
ら、日本人だったら誰だって知っている。私はまるで警視庁の交通安全の
スローガンを列記したようなので、詩として好まないが、日本人の心情が
溢れている。この詩は日本人のほかに、書けないと思う。

 「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレ
バ 行ッテソノ稲ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナク
テモイイトイヒ」と、「行ッテ」が3回も繰り返されていることに、5年
前の東日本大震災や、今回の熊本地震に当たって、全国から被災地を救援
するために、大勢がボランティアとして向かった日本人らしい、心根(こ
ころね)を重ねあわせた。

 日本社会の一体感

 この詩が「雨ニモ……風ニモ……雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」と始まってい
るのには、日本の四季が描かれている。東西南北に心を配っているが、日
本社会に一体感があって、とても日本人らしいことだ。

 だからこそ、この詩が日本国民によって、ひろく親しまれてきたのだろう。

 地震が日本人の心を磨いてきた

 私は賢治に親しむようになってから、東北地方の地震の記録に、関心を
持つようになった。

 明治29年の三陸大津波は、岩手県釜石市(現在)の東方約200キロ
の海底地震によって、もたらされたものだった。賢治はその37年後の昭
和8年9月に没したが、その半年前の3月に、釜石市東方の同じ海底が震
源となって強震が発生して、津波が襲来した。岩手県の被害が最大だった
が、宮城県、青森県の三県で3000人あまりが亡くなった。

 三陸大津波の40年前に当たる安政3(1856)年にも、北海道南東
部を震源地として、青森県と岩手県にかけて三陸沿岸が津波によって襲わ
れ、多数の死者をもたらした。

 地球の地震の90%は太平洋周辺

 地球上の地震の90パーセントが、太平洋の周辺で発生することは、よ
く知られている。私たちは地震と隣合わせて、生きてきた。

 『方丈記』の地震は今日も変わらず

 鴨長明は『方丈記』のなかで、鎌倉時代前期の元暦2(1185)年に
京都を襲った大地震を体験して、「家の内にをれば、忽(たちまち)にひし
げ(押し潰され)なんとす。走り出づれば、地、割れ裂く。羽なければ、
空も飛ぶべからず、龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れの中に恐るべかりけ
るは、ただ、地震なりけりとこそ覚えしか」と、記している。
 
 この時も余震が長く続き、「地震の事、今日に至るまで四十七日間、一
日として止(や)まず、或いは四五度、或いは両三度、或いは大きく動き、
或いは小さく動き、皆、毎度声有り」と、記録している。

 日蓮聖人も鎌倉時代の人であるが、その代表的な著作の1つの『立正安
国論』のなかで、天変地異がしきりに起ることについて警鐘を鳴して、地
震の恐しさを描いている。

 日本列島は縄文時代(紀元前1万2000年〜前4500年)の昔か
ら、地震が頻発してきた。そのころから、互に無償で進んで助け合うこと
が、慣わしとなったのではないかと思う。宮沢賢治のやさしい心情も、東
北をしばしば襲った大地震や津波によって、育くまれたにちがいない。私
は東北をさまざまな仕事のために訪れたが、東北の人々は頻繁に苛酷な飢
饉に見舞われてきたこともあって、ことさら情が厚い。

 日本文化の特徴はやさしさにある

 日本文化のもっとも大きな特徴は、やさしさにある。これほどまでやさ
しい文化は、世界に他にない。日本が島国であって、幸いなことに外敵に
よって、侵されることがなかったことによっても、何よりも和を重んじる
ようになった。

 地震や大津波は跡形もなく、すべてを破壊してしまう。そのために、日
本人はうつろってゆく美しさをたっとび、物事に拘泥(こうでい)しない。
日本人にとって花が美しいのは、西洋人に理解することができないが、散
るからである。中国人や、西洋人のように、財に執着することなく、その
時々の心のありかたを尊ぶ。

 有為の奥山今日こえて あさき夢みじ醉いもせず

 いろはうたの「色はにほへと散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ有爲(う
ゐ)の奥山今日こえて あさき夢みじ醉(え)ひもせず」といえば、国民の
誰もがなじんでいる。形あるもの、華やかなものは、すべてうつり去って
しまう。

 いろはうたは、賢治の「雨ニモマケズ」と同じように、日本以外の国で
あれば、これほど国民によってひろく受けいれられることがありえない。
中国や、西洋の国民は、即物的である。

 茶道も、日本に独特なものだ。思い遣りと、いたわりの心によって、つ
くられている。千利休(1522年〜1591年)が、「人の心をなごや
かにするには、まず己の心をなごやかにすること肝要なり」と説いている
が、古来から日本人に備わってきた茶人的な性格が、茶道となったにちが
いない。

 和食は日本人の心、多感で繊細

 和食は世界の料理のなかで、もっともやさしい。自然となごんで、自然
の味を楽しもうとする。私たちは食を通じて、自然を感じようとする。日
本料理は、日本人の心と同じように多感で、繊細なのだ。

 かつて日本では4、50年前までは、どこへ行っても人情が、微粒子の
ように空気のなかを飛びかっていた。はじめて入る一杯呑み屋の客となっ
ても、和――情がぬくもりをもたらしてくれた。

 日本らしさを守ることが日本の心を豊かにする

 日本でこの4、50年のうちに西洋化が進んで、老いも若きもオシャレ
になった。女性は化粧がうまくなった。その反面、男女とも表情が険悪に
なった。過ぎ去った日本が懐かしい。日本らしさを守りたい。 



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