2016年06月06日

◆政治は映像で語れない

渡部 亮次郎



TVマンは今知らず知らずのうちに日本の国民を飛んでもない方向に誤って誘導してしまっていて、しかもその誤りに気付いていない。テレビを見れば見るほど政治不信に陥ると言う人の増えていることに気付いてない。

政治は欲望、思惑、懸け引き、寝技などから成立しているが、これらはいずれも舞台裏で展開されるものだから映像にはならない。それなのにテレビは映像だけで伝えようとするから、初めから無理があるのだ。しかも事実のオーバーな部分だけを繋ごうとする。

なるほど記者会見という絵はある。しかし嘗てNHK最高の政治記者島 桂次(のちにNHK会長・故人)が喝破したように「記者会見こそは天下の嘘吐き大会」である。政治家が不特定多数を前に本心を語るわけがない。

本心を語っているように見せてただ大衆を煽っているのは演説であって本心ではない。それなのに記者会見や演説の映像を繋いで、
これが真実と言われて信じる方がどうかしている。

安倍退陣、福田・麻生の戦いになったとき、このことを一番感じた。私はいうなれば日本におけるテレビ政治記者1期生であり、映像だけを繋いで事象を伝えようとすれば、結論は真実とかけ離れたところに落ち着く事をよく知っていたからである。

テレビ政治記者1期生たちはテレビで政局を伝えるべく様々な試みをしたが、さっぱり上手くゆかなかった。特に初期の頃はカメラの光感度が悪かったものだから強烈なライトが不可欠だった。

火傷するぐらいの強烈なライトを当てられて政治家は冷静に対応できるものではない。単独会見に成功したとしてもフィルムはなんだか興奮状態にある政治家の姿を伝えるだけだった。

ライトが弱くなっても政治家がレンズに向かっては嘘を言う事は変わらない。そこで考え出された手法が反対の立場にある政治家による追及である。相手は逃げにくいから嘘は言いにくいだろうと考えたが、簡単には行かなかった。時間の制約である。

そうやって40年近く。テロップでしか語れなかった政治が漸く映像化されたのかと思って覗いてみたら、何の事は無い、冒頭の結論である。


まず、参院選挙に当って各社が抉ってきた「格差社会」「地方と都会の格差」の問題について言えば、映像として掬いやすいのは田舎の人たちのややオーバーな「恨み節」でしかない。

それをこれでもか、これでもかと放送されると、なんだか都会に住んでいることが罪悪のように思わされた。心ある人たちは「マスコミ誘導の民主党勝利だ」と騒いだ。

しかし、マスコミにその意識は全く無い。己のやった事の意味を考えず、ただ映像化に成功しただけと納得しているだけだ。

次の安倍、福田の交代劇。安倍の弱体化に感づいた森喜朗、野中広務、青木幹雄、古賀誠らで福田後継を決定して電光石火の多数派工作。この陰謀めいた工作は映像にならないどころか、記者たちも嗅ぎ付けられなかった。

したがって福田が出馬声明をした時点で勝負は決していた。特にテレビは政局に後れを取ったのである。だから以後は麻生の動きを無視した。勝負のついてしまったレースをいくら追ってもスポンサーはつかないかである。

ところが多くの自民党員はメディアのそうした態度を福田の思い上がりと勘違いして判官贔屓さながらに密かに麻生支持に傾いていったのである。これを裏付ける映像を探す事はできないから開票結果に誰もが驚く始末、というわけだった。

事件、事故は現場の状況を伝えればそれだけで映像は完結する。だが残念ながら政治だけは欲望、思惑、懸け引き、寝技、裏取引で成り立っているものだから映像化はきわめて難しい。隠し撮りという禁じ手が無いわけではないが一般的ではない。

政局は今後、衆院解散に向けて様々な様相を見せるであろう。しかしこれを伝えるテレビ各社の手法は従来と同様、記者会見と演説を繋ぐだけであるはずだ。それが事実とは異なった印象を視聴者に与え、結局、当惑させたり、虚脱感を与えても知らぬ顔の半兵衛。

ミャンマーの動きにしろ、今後は民衆弾圧に対する国際的反対論の高まりからいろいろな動きの展開が期待されるが、映像面では決定的なものが無いだろう。そうするとテレビは事態から遠ざかってゆく可能性がある。

このように考えてくるとテレビとは必ずしも事実とか真実とかを伝える手段としては実に頼り甲斐のないものであることに気付く。テレビは性質上、何でもオーバーに伝える。割り引いてみる習慣が必要なのである。(文中敬称略)2007・09・30
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