2016年06月15日

◆木津川だより 〜岩船寺〜 

白井 繁夫



「岩船寺」(木津川市加茂町岩船)は、一度訪ねた浄瑠璃寺の北東約1.2kmの処にあります。この両寺院付近の山間の小道を辿ると、各所に散在している鎌倉時代の石仏に出会えます。

観光案内には岩船寺から浄瑠璃寺へと山を下っていくと約40分の距離で楽しく散策できると記してありました。

ところが、私は浄瑠璃寺へ先に来ましたので、やむなく山道を登る逆ルートをとり、下って来る人とすれ違うので山中で迷うことが無いと思いながら歩いて往くことにしました。

浄瑠璃寺の門前から加茂へ向う舗装道路を進むと「藪の中地蔵」と呼ばれている磨崖仏が竹藪の中にありました。お地蔵さんだけでなく定印の阿弥陀さん、長谷寺式(右手に錫杖.左手に宝珠)の十一面観音立像がそれぞれ舟形の龕(がん)の中に浮彫りされてあり、中央の地蔵菩薩は1.5m高位もあって、本格的な石工橘安繩作の立派な姿です。

当尾(とうのお)の石仏のなかで最も古い弘長2年(1262)の作で、現在までに知られている橘派石工の最古例です。大工や助手、並びに願主や僧尼など9名の名前を記した長文を刻んでありました。

ここから北へ向かうと大門石仏群があり、この地方最大の阿弥陀如来の大磨崖像を見ることが出来るとのことです。この度は「岩船寺」へと、「カラスの壺」を目指して進むルートを歩き、「あたご燈籠」で右(東方)へ折れて、4本の山道が出会う広場へと進みました。(通称「カラスノツボ」:“路傍にあった石を円孔に彫って「唐臼(カラウス)の壺」の形状の様に見えたのがなまって、カラスノツボと呼んだとのことです。”)

石仏はこの場所の西の崖下の東面に阿弥陀如来、南面に地蔵菩薩が刻まれており、刻銘は南北朝時代の康永2年(1343)の作とあります。当尾石仏群の中では最も新しい遺品の一つと云われています。

阿弥陀如来像の右側に線刻で燈籠をあらわし、その火袋の所を彫って燈明を立てられるようにしているのは、大変珍しいとのことです。

「カラスの壺」から東へ進み山道の登り坂の手前を右に折れて「笑い仏:阿弥陀三尊像」へ寄り道しました。

小高い崖に巾広の舟形のくぼみ(龕)を彫りその中に三体の坐仏を浮彫りしてあり、仏の上の岩がせり出して自然の軒をなし、雨露がかからない様になっているためか、蓮華台に坐す各仏は数世紀(永仁7年:1299年の猪末行作)を経ても、風化されていない状態です。

中央の阿弥陀如来や左右の脇仏もともに、穏やかな顔で目を細めてほほ笑む姿は、真に「笑い仏」と呼ばれて愛され、親しまれて来たことがよく理解できました。

もとの山道に戻り、「岩船寺」を目指して登り始めましたが、山中に入ると(私にとっては)急坂を登るので、周りの景色や石仏のことなど構う余裕を失い、ただ只管に一歩づつ足を前に出すだけになりやっとの思いで、門前にたどり着きました。(歳は取りたくないですね)

「岩船寺」の門前は、浄瑠璃寺よりもっと山寺といった風情でした。狭い山間に建っている寺門への石段を登る西側に檜皮葺の白山.春日の2神社(室町時代の遺構)がありますが、寄らずに寺門をくぐり境内に進みました。(この神社は嘗ての岩船寺の鎮守でした。)

右(西側)の庫裏とつながる本堂には丈六の阿弥陀如来坐像(重文)が安置されており、小さい池の左(東側)に重文の十三重石塔、南の奥の小高いところに屋根は瓦葺ですが、褪せた朱色の三重塔(重文)が建っています。

門のすぐ左には五輪塔.地蔵菩薩石像.不動明王石室(応長2年:1312年作)等それぞれ皆重文の石造遺構です。あまり広くない境内ですが、調和し静かに佇んでいました。

「岩船寺」の創建については明らかではありません。

『岩船寺縁起』によると、「僧行基が岩船寺の近くの鳴川に阿弥陀堂を建てたのがはじまりで、その後、空海が善根寺(鳴河寺)を建立して、空海の弟子(甥)の智泉大徳が、嵯峨天皇の皇子の誕生祈願に善根寺の東禅院灌頂堂(かんぢょうどう)内に報恩院を建立しました。その後、弘安2年(1279)にこの報恩院を岩船(いわふね)の地に移し、同8年に供養した。」とあります。しかし確証はありません。

大同年中(806〜809)嵯峨天皇の皇后(橘嘉智子)が、皇子誕生を祈願して報恩院を創建し、智泉を咒願(しゅがん)とした、とあります。『弘法大師伝:高野山智燈撰』。
「岩船寺」の山号が高野山報恩院とされているのが、善根寺の法燈を継ぐものと云われています。

「岩船寺」の寺名は、弘安10年(1287)不動磨崖仏の銘文にはじめて登場し、つづいて永仁7年(1299)の阿弥陀三尊像(笑い仏)にも出ています。

本堂に安置されている天慶9年(946)在銘の阿弥陀如来坐像(重文)や11世紀初めの普賢菩薩騎象像(重文)は、他寺から移入したとしても応長2年(1312)在銘の不動明王石室(重文)や鎌倉時代後期の作の十三重石塔(重文)などの石造物の遺品からすると、鎌倉時代後期には存在したものと推察されます。

室町時代の嘉吉2年(1442)に現在の三重塔(重文)が建立され、同じ頃、鎮守の白山神社の本殿も建立されました。

寺の周辺には13〜14世紀の年紀をもつ石造遺物が多く散在しており、山の峰々を回峰行する修験道的な活動の道場の役目を持つ「岩船寺」は、中世僧徒の活動の場所でもありました。

『興福寺官務牒疏』には「坊舎八宇、交衆十二人」とあり、15世紀ごろが最も寺運が盛んであったのではないかと思われます。

「岩船寺」は浄瑠璃寺同様、興福寺一乗院の末寺でしたが、現在は真言律宗西大寺の末寺です。

本堂に上がると、4体の四天王立像に守られた大きな阿弥陀如来坐像(重文)に圧倒されました。欅の一木造りで高さが3m弱あり、本堂が小さく感じました。像内の墨書銘により天慶9年の作とわかり10世紀半ばの基準作例として大変貴重とのことです。

堂内には、もとは三重塔に祀られていた平安時代の普賢菩薩騎象像(重文)や十一面観音立像(鎌倉時代)などあり、疲れた体も心も各仏様から安らぎのひと時を戴きました。

次回は古代にもどり、「木津川沿いの古墳時代の散策」もと思っています。

参考資料:
      日本の古寺美術  18   保育社  肥田路美著
      加茂町史 第一巻   古代.中世編  加茂町
      大和の古寺7     岩船寺 岩波書店 
                       (郷土愛好家)
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