泉 幸男
いまの世の中でイヤなもののひとつに、我がもの顔の大音響
拡声器の使用がある。
首相官邸前や官庁、電力会社の前などで、となりの街区に
まで響き渡るような大音響で安保法案や原発再稼働への反対を
がなりたてる。
音響設備の進歩に、法規制が追いつかない。
運動家たちは、いかなる大音響を使うのも自分らの権利だ
と信じている。
あげく、周囲の飲食店も通行人も大きな迷惑をこうむる。
憲法第21条第1項にいわく
≪集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、
これを保障する。≫
面倒くさがりの政治家も官僚も、この条項を言い訳にして
騒音規制に踏み切らない。
■ 憲法学者が無能だから… ■
言論の自由や「一切の表現の自由」は、絶対的権利ではない。
名誉棄損や公然猥褻に該当すれば、これらの「自由」は規制される。
アーティストが「表現の自由に基づくパフォーマンスです」
といってサイレンを鳴らして車を走らせたら、これもただでは
すまない。
言論の自由や表現の自由は、人類が苦労して勝ち取った
基本的人権だ。
だが、基本的といえばもっと基本的なのは「平穏安寧を
享受する」権利だろう。
大音響言論で他人の平穏安寧を乱してもよいと誰が決めた
か。
かねて無能で名高い、わが国の憲法学者らに聞いてみたい
ものだ。
なぜなら、政治や行政が大音響に対する規制に極めて及び
腰なのは、憲法第21条第1項との兼ね合いを気にするから
なのである。
拡声器が世の中に出たのは、真空管が発明されて以降。
たかだか20世紀の産物である。
その拡声器の使用を基本的人権のうちに数えるのは、
はなはだしい思い違いだとわたしは考える。
■ ひとりの人間の分際とは ■
「天賦の権利」という概念でいくならば、神さまは人間の
言論表現の分際を「声の大きさ」でお示しになっていると
言える。
肉声で主張を語り抗議行動を起こす分には、これに規制を
かけることは、たしかに慎重であるべきだろう。
ひとりの声で足りなければ、10人集めて拡声する。そういう
表現の自由は、基本的人権として認めていいだろう
(但し、なにごとも程度というものがあるけれど)。
だから、ささやき声を人間ひとりの大声のレベルまで上げる
分には、百歩ゆずって拡声器の使用を認めてもよいと思う。
しかしその一線を超えてはならない。その辺が線引きでは
ないか。
■ インターネット空間出現後の社会のあり方を定めよう ■
自称「良識の府」の選挙運動の真っ盛り。おっつけ都知事
選もある。
まさに大音響が闊歩する夏だが、大音響公害についてどう
考えるかを各候補に聞いてみたい。
その答えしだいで、各人の見識のほどが端的に示される
だろう。
いまや言論の自由、表現の自由はインターネット空間で
十二分に確保されている。
インターネットがなかったころ大目に見られた大音響は、
もはや社会が許容すべきものでなくなったのである。
拡声器の使用は、緊急車輛のサイレンのごとき扱いに限定
すべきだ。諸賢はどう思われるか。