2016年08月10日

◆最近の風潮に思うこと (その四)

真鍋 峰松



今の世の中、あらゆる分野で、善く言えば社会をリードしている、悪く言えば掻き回しているのは、テレビ報道であろう。 

活字による報道媒体である新聞・雑誌などとは違い、テレビのような電波媒体は即時性・臨場性などに優れ、時間に追われじっくりと落ち着いて物事を考察することの少ない現代人にとって、一番相性の良い媒体であろう。 

だが、電波媒体の危険性を指摘する人も多い。 報道を急ぐあまり消化不良気味になることは避けられないし、視聴者にとっても弾丸並みのスピードで流れる言葉は凡人にとり言葉の持つ意味の反芻も効かず、聞き流すことが多々ある。

さらに、番組に登場するコメンテーターと称する種々雑多な人たち。視聴者受けを狙ったような知名人を並べ立て、あらゆるジャンルの事件報道に種々コメントを発するので、如何にも素人感覚で現場から遊離したケースも多い。この番組に居合わした人たちも福祉現場・行政に精通しているとは到底思えなかった。

その故か、番組上では弱者の立場のみを強調したようなコメントだけが多かった気がする。

このような問題意識の判然としない報道よりも、番組に登場した原告となった健康で実直そうな弁も立つ63・4歳の男性が何故この種の施設を利用せねばならない環境に立ち至ったのかを追及する方が、今の厳しい世相を現場の目から取り上げる視点からの、一つの題材になり得たのではないかという気がするのだが。 

本来のあるべきジャーナリズムの姿としては、もう少し冷徹で深みのある、責任ある報道を期待したいのだが、無理なのであろうか。

とりわけ目立つのは、深い考察力もなく、現実や実状も詳しく知らずして、ややもすれば、一方的に強者を責め、弱者を擁護する側面の克ち過ぎた報道である。

これが、逆説的に、モンスター・ペアレンツ(保護者)やぺイシェント(患者)の問題として、一時揶揄的に取り上げられた由縁でもあろう。

望ましい報道として、その客観性・中立性を強調したある書物の言葉を挙げておきたい。

「ジャーナリズムが大衆の中におらねばならぬことはいうまでもない。だが、そのことはジャーナリズムが大衆の中に埋没してよい、ということではない。権力に媚びざることはもちろん大切だが、大衆に媚びざることはもっと重大である。

ジャーナリズムが見識を失って大衆に媚びはじめると、活字はたちまち凶器に変ずる。富者、強者、貧者、弱者に媚びざることがジャーナリズムの第一義だが、その原則が影をひそめて、オポチュニズムとセンセーショーナリズムだけになってくる」。

報道の受け手としての我々も、十分に心しておかねばならぬ言葉だ、と思う。
(つづく)
                             <評論家>
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