2016年08月25日

◆ハリー・ウーの正体

宮崎 正弘



<平成28年(2016)8月23日(火曜日)通算第5003号 >

 〜労働改造所の告発で一時はノーベル賞にも議せられた「人権活動家」
    ハリー・ウーの正体を「中国ではなく」、アメリカのメディアが報じた〜


ハリー・ウーこと呉弘達が死亡したのはことしの4月26日、休暇先のホ
ンジュラスだった。人権活動家が、なぜホンジュラスに居たのか?

訃報に接し、ナンシー・ペロシ(民主党下院院内総務)は「かけがえのな
い人物だった。民主と人権の闘士として生涯を捧げた。世界にとって大き
な損失である」と最大級の弔意を表明したものだった。

死後つぎつぎと暴かれたハリー・ウーの「実像」は、人権活動家としての
彼の「虚像」とはかけ離れていた。

晩年、彼は「中国で労働改造所でなくなった遺族への生活援助」などを名
目にファンドを設立した。ワシントンに旗揚げした「労働改造研究財団」
は、小さな写真パネルの記念館も併設したが、集まった資金のうち、遺族
等の見舞金に使われたのは300万ドル足らずで、残りの1700万ドルはハ
リー・ウーの私的な活動に使われた(アジアタイムズ、8月22日)。

「彼はモラルが破壊していた」「公金横領の疑いが濃厚」「私的な女性と
のことにカネが流れていた」などと批判が相次ぎ、米国の中国系メディア
ではなく、『フォーリンポリシィ』(4月25日号)や『ニューヨークタイ
ムズ』(8月14日付け)が報道した。

嘗て客員研究員として籍を置いたフーバー研究所は「研究がいい加減であ
り、内容は杜撰、フーバー研究所とは無縁の人とおもっていただきたい」
と絶縁に近い声明をブーバーの幹部が明らかにした。それほどに多くの支
援者を失望させるに至った。

とりわけ労働改造所の数、労働者の数がほかの研究者等との研究結果と大
きな齟齬があった。

実際の呉弘達は銀行家の息子として生まれ反右派闘争では労働改造所送り
とはなっていない。だから「彼の自伝は誇張が大きい」とされてきた。

1985年に米国へ渡り、妹の住むサンフランシスコでUCBAに通いながら
昼はドーナツ屋に職を得た。

体験談を近所で講演するようになり、その評判を聞いたフーバー研究所の
ラモン・マイヤーズの耳に入った。このころ、ハリーは米国永住権を獲得
した。

マイヤーズの引き立てで、フーバー研究所客員研究員となるが、1991年に
はワシントンDCへ進出し、財団を設立した。

同時にボーイング社やKマート本社にピケを張り、「販売している中国製
品には労働改造所で作られた製品が多いのは問題だ」と煽動した。左派や
人権グループが応援に駆けつけ、新聞ダネになった。

1995年に新彊ウィグル自治区へカザフスタンから潜入を試みて逮捕され、
ときのクリントン政権が「人権」を楯に中国政府に釈放を要求し、ハ
リー・ウーは米国へ凱旋した。一躍かれや有名人となっていた。
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