宮崎 正弘
<平成28年(2016)10月4日(火曜日)通算第5050号>
〜プーチンのシリア空爆の究極の狙いは『チェチェン・モデル』
シリアの軍事施設を守備するだけでアサド体制を守るのではない〜
ソ連崩壊後、武力紛争に陥った地域のなかで、ロシアが最も手を焼いた
のはチェチェンだった。ジョン・ル・カレは、この戦争を舞台にパワー
ゲームと情報戦の小説を書いた。日本人作家もひとり、この問題に挑戦し
たが、大方の日本人にとってチェチェン紛争なんぞ、何の興味もなかった。
プーチンはなぜ、熱心にアサド体制守護のため、戦うのか?
欧米はアサド独裁政権を打倒するため、反政府軍にテコ入れし、内戦の
過程で「鬼っ子」のISが誕生し、むしろISは反アサド勢力と対峙し、
かつ欧米軍と戦ってきた。反アサド勢力に、リビアから武器を回送する秘
密作戦をヒラリー・クリントン(当時の国務長官)が指示していた。これ
が「ベンガジゲート」といわれるヒラリーの大スキャンダルとなった個人
メール事件にも繋がった。
途中からIS絶滅の空爆にロシア空軍が参加し、さらに最近はクルド武
装勢力を爆撃してきたトルコ軍も参加し、三つ巴の複雑な戦闘状態となっ
て、何時終わるか。誰も予想できない混沌がシリア情勢である。
アレッポ市内東側は反政府武装勢力の地盤だった。激越な戦闘が行わ
れ、壊滅状態となった。このことは米大統領選挙の論点となるほどに深刻
な問題である。
人道援助のためのトラック部隊まで襲われ、病院は破壊され、これらは
アサド政府の仕業とされるが、真相は闇の中である。
かつてソ連時代、中東はソ連の影響力が強く、1970年代にはエジプ トの
アレキサンドリア港にもソ連の軍事拠点が設営されていた。パレスチ ナ
のテロリストらも、ソ連が援助してきた。
その残滓がシリアのタルタス基地で、軍事設備のほか、原油輸出中継に
も使っている。しかし港湾としては規模が小さく、ロシアとしてはもう一
ケ所、中東に拠点が欲しい。それが急激なイランへの接近に繋がる。
▼チェチェンの武装勢力は強く、イスラム戦士が応援し、泥沼へ
さてチェチェンは北カフカスのソ連国内に位置し、ロシア領内と設定さ
れたが、1991年に「独立」を宣言した。
エリツィン政権はロシア軍を派遣して、容易に制圧可能と計測し武装ヘ
リなどをとばしたがチェチェンは凶暴無比なうえ、アフガニスタンからア
ルカィーダなどの応援部隊が陸続と這入り込み、かれらは戦闘能力が高
く、一方のロシア兵は厭戦気分濃厚で、戦闘は膠着状態に陥った。
第1次チェチェン戦争は1994年から96年だった。死にものぐるい の汚い
戦闘といわれ、ロシア兵は参加を嫌がるほどにチェチェン人は強桿 だっ
た。しかし、チェチェン側の指導者ドウダエフが戦死した結果、「半 自
治」「半独立」という中途半端な、曖昧な条件で停戦となった。
1999年に第2次チェチェン戦争が勃発した。
プーチンが首相の座に就いていた。かれは容赦なき軍事攻撃を入念に用
意しており、チェチェンの「首都」グロズヌイは半ば廃墟となってしまった。
2007年まで散発的ゲリラの軍事衝突が繰り返されたが、チェチェンの2代
目の指導にラムザン・カドイロフが出てきた、プーチンは、この2 代目
を手なずけ、停戦状態を終戦に持ち込んだ。グロズヌイ政権は、モス ク
ワに忠誠を誓った。これにより無名の指導者プーチンはいきなりロシア
国民の英雄となった。
「いまシリアで繰り返されるパターンはまったく『チェチェン・モデル』
である」(ジョン・ロイド、オックスフォード大学「ジャーナリズム研究
所」主任研究員。『エルサレムポスト』、10月3日付け寄稿)