石岡 荘十
蓄音機から飛び出したラッパのような形をした大きなスピーカーの前に、きちんとお座りをして、ちょっと首をかしげた犬が音楽に聞き入っている。この図は、最近はあまり見かけなくなったが、歴史のある音響メーカー「ビィクター」のトレードマークである。
http://www.jvc-victor.co.jp/company/profile/nipper.html
昭和21年、群馬県新町(現・高崎市)に紡績工場があり、わが一家は中国から引揚げてきたばかりで、その社宅に住んでいた。木造平屋の粗末な建物だったが、その居間に、小型冷蔵庫ほどの大きさの電蓄がでーんと居座っていた。
クラシック好きの父親がどこでどう工面してきたのか、戦後間もない食うや食わずの時代にいかにも似つかわしくない“贅沢品”であった。
おまけに、唯一のレコード、これがすごかった。羊の皮表紙の12枚組みのアルバムで、その表紙の真ん中には「ヒズ・マスターズ・ボイス」が刻印されている。収蔵された曲は---
1.A&B パガニーニ作曲 「狂想曲イ短調」 ハイフェッツ
2A&B ヘンデル作曲 「ピアノ組曲ニ短調」 フィッシャー
3.A&B ヴェルディー作曲 歌劇「トラヴィアータ 第一幕、
(あヽ、そは彼の人か)」 ソプラノ独唱 アイデ・ノレナ
4.A&B ヨハン・シュトラウス作曲 管弦楽 歌劇「蝙蝠 序曲」
ミネアポリス交響楽団
5.クラヴサン独奏 ランドルフスカヤ
A「燕・愉しき夢」
B シャコンヌ 円舞曲」
6. A&B ハイドン作曲 「弦楽四重奏曲ヘ長調」 プロ・アルト弦
楽四重奏楽団
7.バス独唱 シャリアピン ムソルグスキー作曲
A ヴォルガの舟歌
B 蚤の歌
8. チェロ独奏 ピアティゴルスキー
A ウエーバー作曲「アダヂオとロンド」
B フランクール作曲「ラルゴーとヴィヴォ」
9. A&B 管弦楽 バッハ作曲 「トッカータとフーガ」 フィラデルフィア管弦楽団
10. A&B ベルリン独唱者連盟
A バリトン独唱 ベートーベン作曲 「自然に顕はる神の栄光」
B ソプラノ独唱 ヴェルディー作曲
「アヴェ・マリア」
11. A&B ヴァイオリン独奏 ヴェラチーニ作曲 「奏鳴曲ホ短調」
(ティボー)
12. A&B 管弦楽 ワグナー作曲 歌劇「ローエングリン」(第一幕
への前奏曲) ニューヨーク愛好家協会
どうです、この見事な選曲と演奏者の顔ぶれ。珍品はシャリアピン本人のサイン入りのレコードだ。一つしかないこのアルバムを小学校の高学年から高校を卒業して家を出るまで繰り返し繰り返し聴いているうちに、全曲、鼻歌を歌うように何気なくハミングできるように刷り込まれてしまった。
その一方で、ラヂオから流れるハリー・ベラフォンテ、高校のときには、高崎市に本拠を置く群馬フィルハーモニーオーケストラ」(群響)合唱団でロシア民謡から第九まであらゆるジャンルの楽曲を歌い続けた。
群響はあの映画「ここに泉あり」(昭和30年 監督今井正、音楽団伊玖磨、出演岸恵子・小林桂樹)で知られた市民オーケストラで、当時大学生であった小沢政爾もしばしば指揮をとった。
この映画のストーリどおり、夏休みには県内の田舎の中学校を群響と一緒に巡回して移動音楽教室を開き、歌った。
当時、シルクを生産していた鐘紡では、年に1回、当時有名な歌手を工場に呼んで、社員の慰労演芸会を開いていた。高峰三枝子、林伊佐緒、奈良光枝、灰田勝彦・晴彦----ナマの流行歌手を目の前にして、ジャンルを問わない音楽にのめりこんだ。
音に対するこんな思い入れのきっかけとなったのが、「ヒズ・マスターズ・ボイス」だった。この出会いがなければ、この歳で、クラシックからカントリー、演歌まで、数百曲をパソコンに取り込んで、一日中BGMに濫読ならぬ“濫聴”する生活をエンジョイすることにはならなかっただろう。
1889年にイギリスの画家フランシス・バラウドによって画かれビクターの商標となった原画は、フランシスの兄マークが亡くなるまで可愛がっていた愛犬のフォックス・テリア「ニッパー」が、兄のマークの生前、蓄音機に吹き込んだ声に聞き入っている姿を描いたものだそうだ。
愛犬ニッパーがラッパの前でけげんそうに耳を傾けて、なつかしい主人の声に聞き入っている姿だとビクターのHPにある。つまりHisMaster's Voiceに耳を傾ける姿なのである。
そこで話は飛ぶが---、
政権に関わる者は、この国の主である国民の声に耳を傾けるニッパーを見習ってもらいたいものである。
(再掲)