2016年11月04日

◆木津と応仁の乱 続編 A

白井 繁夫



応仁元年(1467)5月、東軍(細川勝元)が西軍(山名宗全)の各守護の陣地に対して攻撃を開始したことから、応仁の乱は始まりました。初期の戦闘における東軍は八代将軍足利義政の「牙旗」を掲げて戦う官軍であり、西軍は賊軍になったことで、東軍の士気は上がり、優勢に戦っていきました。

ところが、西国の雄:大内政弘(周防.長門等々の守護)が宗全の招聘に応じて西国の大軍勢を連れて、6月に出発したのです。政弘は三代将軍義満によって応永6年(1399)殺された大内義弘の曾孫です。その後着々と勢力を回復し、中四国や北九州の地域にも勢力を持つ有力な守護大名となったのです。

大内軍は東進の道中で伊予守護河野通春や瀬戸内の海賊衆とも合流し、2万余の兵士と船2千隻の大軍となって兵庫に着き、進軍途上で邪魔立てする東軍(細川側)を撃破して、8月23日に京の東寺に到着しました。

西軍(山名勢)は、6月に入京していた大和の古市胤栄や紀伊の畠山政国と8月に到着した大内政弘の大軍と合流し勢いを取り戻し、宗全は大内らと協議して、内裏と室町第を制圧する方策として東から三宝院を攻める戦法を企画するのです。
(この計画は下京方面の細川勢と室町第との連絡遮断の作戦と言われています。)

他方、勝元は後土御門天皇と後花園上皇、両陛下のきさき方と三種の神器を戦乱から守るため、急遽内裏から花の御所へ避難してもらい、室町第に臨時の行在所を造り将軍と同居しますが、この方策を取ったことで、東軍は正式の「官軍」となり、西軍は「賊軍」になりました。

山名宗全は「戦は勝つことが大事と」賊軍など意に介さず、9月の初日、畠山義就と朝倉孝景らに若狭守護武田信賢(のぶかた)が守る「足利尊氏が厚く保護した醍醐寺の三宝院」を攻撃させ、放火して落とし、更に進軍して13日には内裏を占拠しました。

9月14日に赤松政則の家臣:美作守浦上則宗が3千の兵を伴い上洛しましたが、下京は既に西軍に占拠されており、東軍に合流できず、岩倉山(東山の一角)南禅寺の裏山に布陣しました。

当時の人々は戦火が郊外にある南禅寺まで延びるとは思ってもいませんので、京の公家達は家伝の名宝(書画.名器等)を寺院に預けていました。ところが、岩倉山の浦上軍が夜間の休息時に灯した松明が洛中から見ると、京の三条口を押える要衝の真上(東山)に突然大軍のかがり火の列が出現したと思われました。

9月18日の早朝、西軍の大内軍が南禅寺の裏手から山頂めざし攻め上がりましたが、上か
ら大石の落石で攻撃は失敗し、次の山名軍は粟田口の岡から攻め上がるがこれも上から
の落石攻撃で、敗退しました。

三番手として畠山勢の遊佐軍.誉田軍が山科から攻めるが木々の間から矢を射かけられて
退き、斯波義廉勢の甲斐軍や朝倉孝景軍が東岩倉山の上方の如意ヶ岳から下って攻めたが、
谷が深く戦闘にならないうちに石飛礫(石を投擲する戦闘技術)の攻撃に会い退却した。
(西軍が四方から一斉に攻撃すれば3万の軍と3千の東軍では勝負にならなかったと思われます。)

岩倉山の一戦で戦闘中の失火が南禅寺の豪華な寺坊や近隣の寺々更に青蓮院までも焼失してしまいました。15日間の戦闘では赤松勢の浦上軍は殆ど無傷で下山して、10月2日に吉田山経由で御霊口に至り東軍の本陣に合流しました。
(大内軍上洛後、東軍は西軍に押されどうしでしたが、この戦いでは西軍を撃退しました。)

この応仁元年(1467)の西軍による攻撃で南禅寺が焼失した時、真如堂も足軽集団に焼かれ掠奪された被害状況を描いた『真如堂縁起』は有名です。

足軽たちは敵などにかまわず寺社や公家の屋敷に火をつけて、財宝など盗み出す、まともな合戦をせず、あっちこっち火をつけて回る戦形態になってきました。

大和や南山城から京都の合戦に参加する真の目的は、幕府政治の安定ではなく、東西両軍に分かれて、知らない他国の武士と戦いますが、畠山家の義就と政長のいずれが家督を継ぐかで、自分たちの勢力の安定が決まるからです。(各地の守護.国人らも同様理由で参加したと思います。)

だから、畠山義就が吉野を出て京へ向かい戦乱に繋がった文正元年末、木津の馬借(ばしゃく:馬を利用して荷物を運搬する運送業者)がタイミングよく蜂起し、奈良周辺の土民も同調した山城の馬借蜂起が、京都―奈良間の交通を度々止めました。

しかし、馬借の中心地木津への発向(軍勢をさしむけること)決議はそれぞれの側の思惑が絡み官符衆徒筒井氏による鎮圧実行が翌年(応仁元年)5月まで延期されたのです。

話題を元に戻して、応仁の乱における東西両軍最大の激戦、相国寺(しょうこくじ)の戦闘の概要にも少し触れます。

三代将軍足利義満が建立した禅宗寺院の相国寺は京都五山の第2位に列せられ、広大な境内には多数の塔頭があり、中でも日本一の高さを誇る七重塔(360尺:約110m高)の仏塔は日本の建築物として史上最高の記録が近年までの500余年間破られませんでした。
(山外塔頭として三代将軍義満創建の鹿苑寺「金閣寺」.八代将軍義政の慈照寺「銀閣寺」が現在京都の観光名所として有名です。)

相国寺は御所の北側にあり、西側は花の御所(室町第)です。細川方はこの広大な境内を有する相国寺に陣地を構えて守りを固めていました。だから、山名宗全は9月の戦いで焼け残っている東方の相国寺を焼き東側を焼け野原にして攻め込む作戦を立てました。

山名宗全は相国寺の寺僧で内通する者を得て、その寺僧の放火を合図に、応仁元年10月3日早朝、畠山義就軍.大内政弘軍や朝倉孝景軍等の軍勢(約三万の大軍)を今回は一斉に境内に攻め込ませました。

東軍にとって相国寺は大事な陣地でもあり、破られると本陣に大影響を与えるため、精鋭の讃岐守安富元網軍や武田信賢軍など3千の兵で守っていました。

東門を守る長野弥二郎軍は破られたが、惣門は東と南に堀を造り、安富兄弟が必死に防戦して、進入する敵を7度まで撃退していたが、破られた東門から数万の西軍が押し寄せ、味方の援軍浦上則宗を含む赤松軍が到着した時は、精鋭の安富軍など全員玉砕していました。
(南側の烏丸殿.内裏等守る京極持清軍は相国寺が炎上するのを見て敗れたと思い兵を撤退させたのです。)

10月3日の激戦で西軍が討ち取った首は車8両、死体は数千人に達する激戦だったと言われています。激戦後の西軍(仏殿跡の六角軍、山門跡の一色軍ら)の夜陣には、2万の軍勢が相国寺の境内に留まり、翌日の西側にある花の御所への進撃に備えました。

東軍は、畠山政長軍を主力に反撃に出ますが、数千の東軍に対し西軍は数万の軍勢であり、自軍の兵を分散すれば敗れると思い、敵が群集している山門の一色軍へ東軍は一点突破を目指し決死の覚悟で突撃していったのです。

槍先を揃え一丸となり突進する東軍に、一色軍立ち向かうが崩れ、逃げる者が救援軍の邪魔になり、六角軍と西軍同士で大混乱、突入した政長軍に突き、切られ、西軍の有力武将を含めた数百の首が切られ、相国寺の石橋下の蓮池には山のように死体が出来たのでした。「蓮池頽(くず)れ」と言われています。

その後、相国寺の戦いは東軍.西軍ともに多数の死傷者を出し、一進一退の闘いとなり、
両軍ともに被害が増大し疲弊して来ました。その間、相国寺は三日三晩燃え続けたと云われ、戦闘も一時休戦状態となって、単発的状況で他の地域に移りました。

戦闘が2年目の応仁2年(1468)以降になると、戦況は膠着状態となり、洛中では両軍が戦う大きな合戦はなくなり、小規模な衝突程度となりました。しかし、洛外に広がって東山の吉田神社や泉涌寺等、天竜寺などの嵯峨.嵐山の寺院も戦乱で焼かれました。さらに、戦乱は地方にも拡大していくのです。

管領家については、将軍義政は斯波義廉の管領職を応仁2年7月(1468)解任して、勝元を任命し、義廉の家督も3ヶ国の守護職も取り上げました。(義廉は幕府に敵対する関東の足利成氏と独断で講和を結ぼうとしたことが原因です。)

将軍家においては、将軍後継者のことで、将軍義政は実子の義尚(5歳)を文明元年正月(
1469)将軍継嗣と正式に決定しました。義視は山名宗全側へ行き、開戦当初とは逆のラインにつくことになったのです。(勝元は富子も取り込むことになったのです。)

応仁の乱は地方へ広がり畠山義就.大内政弘の軍勢は山城、摂津、河内へとシフトして、
勸修寺、醍醐を焼き、瞬く間に南山城へ進出してきました。

また勝元の地方戦への功策としてか?文明3年(1471)斯波義廉の有力家臣.西軍の猛将の朝倉孝景が将軍義政により越前守護職の補任を受け、東軍に寝返ったのです。

このことは大変東軍が有利となる戦略ですが、勝元は地方の守護や国人衆にも諸策を取っていきます。 
(つづく)

参考資料:木津町史  本文篇  木津町、 山城町史  本文編  山城町
     京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
     乱世京都  上  明田 鉄男 著

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