2016年11月13日

◆ウィキペディアの穴

渡部 亮次郎



<元特攻隊員の有名人は2代目水戸黄門の西村晃、元衆議院議員田中六助、元東急フライヤーズ投手黒尾重明、反社会的行為を行った人物に天下一家の会の内村健一、元特攻隊員と偽ったとされる犯罪者に3億円保険金殺人事件の荒木虎美、等々がいる。また、自称特攻隊員の有名人では鶴田浩二がいる。>フリー百科「ウィキペディア」。

ここに外務大臣園田直が居ないのは「ウィキペディア」の穴であり、信頼度を甚だ傷つけるものだ。

園田は陸軍志願兵から日本陸軍最初の落下傘部隊のメンバーとなり、転じて陸軍航空隊の操縦士、更に転じて敗戦間際の1945年8月13日、「天雷特別攻撃隊」の隊長として出動を命じられていた。

全身に爆雷を巻き、千歳基地から太平洋上の米戦艦に体当たりすることになっていたが、悪天候のため、17日に延期。ところが15日に敗戦で一命を取り留めた。しかし本人は「一旦は覚悟した死がなくなって腰が抜けた」とよく語っていた。

8月25日、召集解除となった時、既に園田は31歳になっていた。仕方なし郷里熊本県天草の島に帰り、地元一町田町役場の助役にさせられたが、直後に行われた(1946年4月10日)の衆院選挙に立候補。次点の次で落選。その年の9月には町長に当選。

しかし47年4月25日の総選挙では民主党公認で再挑戦、見事当選。以後、死ぬまで当選を続けた(15回)。野党の衆院議員を妊娠させ、離婚に至ったという事件(白亜の恋事件)でも落選しなかった。

どんなことがあっても慌てるということがなかった。「特攻から生き返った後の人生はお釣みたいなもんだ。恐ろしいことなんてなくなったよ」。

特攻とは、爆弾を抱えた軍用機に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う作戦である。

太平洋大戦末期の日本で、陸海軍あげて大規模な計画的作戦として実施されたが、当然のことながら、攻撃が成功して乗員が生還する可能性は皆無に等しいと言える。

突入失敗で海面に激突したものの奇跡的に助かったり、機体故障による不時着等の理由で乗員が生還した例もあるものの極めて稀であり、出撃すなわち死を意味するといっても過言ではなかった。

この攻撃が行われるようになった理由は、VT信管を代表とするアメリカ軍の対空迎撃能力の飛躍的向上と、航空機性能の開きが圧倒的になったこと、

この戦いに先立って行なわれた台湾沖航空戦により、フィリピンでの稼動航空機数が激減した上にミッドウェー海戦以降ニューギニア戦線などで多くの熟練搭乗員が戦死してしまい、その補充が利かなかったこともあり、通常の航空洋上攻撃では敵空母に対して充分な戦果を期待することができなくなったためである。

このような状況下で確実に戦果をあげることのできる最も確率の高い方法として採用された。

初期には、かなりの戦果を上げることができた。末期になると本土決戦のために練習時間の短い搭乗員を出撃させ、練習時間の長い搭乗員を温存させたために戦果が減ったのである。

命中率は米国立公文書館に保管されている米軍機密資料によれば命中率が56%以上とかなり高かったことがわかる。

特攻隊は、海軍・陸軍とも航空機や船舶など多くの部隊が編成されているが、最も著名なものが海軍の神風特別攻撃隊である。これは、海軍航空機からなる特別攻撃隊であり、元寇を追い払ったといわれる「神風」の思想の影響からか、特に神風特別攻撃隊と呼称していた。

本来の読みは「しんぷうとくべつこうげきたい」であるが、初出撃を報じる「日本ニュース」映画第233号のナレーションで「かみかぜとくべつこうげきたい」と読んで以来、「かみかぜ〜」が定着した。

あまりにも著名であるために、戦後には特別攻撃隊の別称として「カミカゼ」が使われる場合も多く、カミカゼ・タクシーなど。

陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、重爆撃機)と万朶隊(鉾田、軽爆撃機)に始まり、その都度命名された。

その当時の陸軍特攻隊指揮官は富永恭次中将である。しかし、沖縄戦が始まり、回数が増えると、やがて「第○振武隊」のような命名が増えていった(丸には数字が入る)。

沖縄戦では知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。陸軍の特攻を指揮したのは菅原道大中将であった。 また、海上から海上挺身戦隊など(所謂、連絡艇・レ艇)による攻撃も行われた。

損傷を受けた正規空母は決して少なくはないのだが、沈んだ艦が1隻もないのはアメリカ海軍のダメージコントロールのノウハウが日本軍との戦闘を通じて向上していたことが大きい。

とはいえダメージコントロールや曳航も断念せざるを得ないとの判断が一時的にせよ下されるほどの損害[8]を特攻機が与えていたことも事実であ
る。

だが、特攻機による攻撃隊とは突入機が特攻隊1隊あたり2機から6機、多くて10機、少ないときは1機という規模の小ささであり、アメリカ海軍からすれば1日の来襲機数とは直掩機を含めても空母1隻分の攻撃隊にも満たないものである。

南太平洋海戦までのような反復攻撃を行えていたのであれば、エセックス級空母がいかに優れた設計であっても戦没艦の発生は免れなかったであろ
う。

しかし現実には日本軍の戦力は特攻作戦に傾注してなお日に20機と揃えられず、主要艦艇の撃沈のための攻撃を行えるレベルに復帰できなかった。

唯一1945年4月6日の菊水1号作戦発動時に翌7日と合わせて陸海軍合わせて300機近くの特攻機が投入されたが、襲撃時刻を統一しなかった為に散発的な攻撃となり、突入に成功した機は比較的多かったものの撃沈は僅か掃海艇1隻のみであった。

確認されている軍人の特攻(航空特攻以外も含む)戦死者数は陸海軍合わせて6000名を超えるとされる。

隊員に指名されるも生還する例も多い。時期を逸す、機材故障、体調不良、天候不良、理由を付け出撃を回避、突入直前に撃墜され捕虜、等々理由は様々である。園田もこれに類する。

彼らの大多数は、一様に心に傷を負いながらも戦後復興、経済発展の為に日本を支え、戦死者の慰霊顕彰にも尽力している。

しかし極一部の者は戦中の緊張からか自暴自棄になり反社会的な行為に走る者や、特攻と無関係の者が自らを元特攻隊員と偽り行う犯罪も出現している。

また世間の目も敗残兵として彼らに冷ややかで、彼らすべてを「特攻くずれ」と称し蔑む風潮が蔓延した。


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