2017年01月15日

◆名所旧跡だより  石の宝殿(高砂市)

石田 岳彦



1 今となっては正確な時期は忘れましたが、おそらく10年ほど昔のことでしょうか。  朝日新聞の日曜版に「石の宝殿」なるものの紹介記事が載っていました。
  
岩山を背景に横たわる巨大な岩の立方体。如何にも古代史の謎という印象です。
 
 紹介記事を見てから3ヶ月ほど後、休日を利用して現地を訪れることにしました(今回は割りと以前のお話なので、現在とは現地の状況が若干変化しているかも知れません。ご注意ください)。

2 大阪駅からJRの新快速で加古川まで行き、そこで普通電車に乗り換えて一駅。最寄り駅の名前はそのまんま「宝殿駅」。直球です。

 駅前の広場から、「石の宝殿」のある、というより、「石の宝殿」をご神体にしている生石神社(読みは、「おうしこじんじゃ」です。)へと向かいます。

 駅からは直線状の道路をまっすぐに行ったところにあるため、歩くのを開始してすぐに彼方の山の中腹に神社の建物が見え、「あそこまで歩くのか」とげんなりしました。歩いてみたら20分ほどですが。
 
途中にも「石の宝殿」に関する案内板がちらほら。「日本三奇の1つ、石の宝殿へ徒歩○分」。後の2つは何でしょうか?
 
遠くから見たら山という感じでしたが、近くに寄ってみると、小高い丘というところでしょうか。麓から神社まで急な石段が伸びています。石段を登り切ったところが神社の境内です。なお、車道も通っているので、自動車でも行けます。私が行った際にも境内に何台か停まっていました。
  
丘の上ということもあって、見晴らしはよいですが、右方を見ると隣の山が原型をとどめないほど、切り崩されています。この付近は竜山石と呼ばれる石材の産地だそうで、隣山の惨状も長きにわたる採掘の結果のようです。石の宝殿も勿論、竜山石で出来ています。

3 生石神社の本殿は変わった形をしていて、2つの建物を横に並べて屋根を連結したような感じになっており、2つの建物の間は「石の宝殿」へ向かう通路となっています。
 
ちなみにこの本殿では、大己貴命(「オオナムチノカミノミコト」と読みます。大国様の別名です)と少彦名命(「スクナヒコナノミコト」と読みます。大阪市中央区道修町の「神農さん」ですね。)の二柱の神様を祭っているそうです。協力して、わが国の国土開発を行ったとされる神々ですね。
 
本殿が2つの建物からなっているのも、祭神が二柱いらっしゃる関係でしょう。拝観料を賽銭箱に入れ、備え置きのパンフレットを一部もらって、本殿の建物の間を通り抜けます。
  
抜けた先には、巨大な岩の立方体(側面に溝が掘り込まれているので厳密には違いますが)「石の宝殿」が横たわっていました。
 
生石神社の境内は岩山で(幸い、隣の山のようにぼろぼろにはなっていません。)、「石の宝殿」は左右後方の3方を人工的に切り出された岩壁、正面を上で述べた本殿に塞がれた四角い空間の中に横たわっています。

 「石の宝殿」の下は池(というには狭いですが)で、その中に土台が在り、「石の宝殿」はその上に置かれた状態になっています。水に浮かんでいるかのように見えることから「浮石」との呼称もあるそうです。なるほど。
  
池の周りには細い道が設けられていて、参拝客はこれに従って、「石の宝殿」の周囲を回ることになりますが、「石の宝殿」が巨大な上に、岩壁がそれを囲むように高く、実際以上に圧迫感というか、自分の置かれている空間の「狭さ」を感じます。
  
全体像はとても入りませんね。後方に回ると「石の宝殿」の本体(立方体の部分)から三角柱のでっぱりが飛び出ていました。

 パンフレットによると、このでっぱりが屋根を表しているそうです。つまり、「石の宝殿」は、底を前方(本殿の方向)に向ける形で横たわっていることになります。

 作った後にわざわざ倒す理由も考え難いので、おそらく何らかの理由により未完成に終わったということでしょう。なお、「石の宝殿」を誰が造ったかについては、よく分かっておらず、播磨国風土記には「聖徳太子の時代に弓削の大連(物部守屋?)が作ったと伝えられている」と記載されているとのこと。
 
風土記は古事記や日本書紀と並ぶ「古代の書物」ですが、その風土記が編纂された時点で「石の宝殿」は既に「〜と伝えられている」という伝説上の存在だったわけですから、まさしく「古代史の謎」と言うべきです。
 
なお、聖徳太子は蘇我馬子と組んで、物部守屋を滅ぼし、推古天皇を立てたうえで摂政となっており、上記の記載にはその点で矛盾があって、当然に専門家からも突っ込まれているわけですが、この点については「風土記にはそう書いている」と答える他ないですね。
 
また、「石の宝殿」が横倒しのまま工事が終了した理由もよく分かっていないとのこと。

そもそも誰が造ったのかも、その動機もよく分からないのですから、工事が中断した理由が分からないのも、寧ろ、当然でしょうか。
  
神話によると、上記の大己貴命と少彦名命の2柱の神様が、一夜の予定で「石の宝殿」を造っていたところ、朝廷に対する反乱が起ったため、これを鎮圧しているうちに朝になってしまい、そのまま工事が中断されてしまったということです。
「鎮圧した後で、作業を再開すればよい」とか、「朝になっても工事を続ければいいじゃないか」等という、突っ込みはいけません。神罰が下ります。

また、「最初から、横倒しではなく、立った状態で岩を切り出せばよかったのではないか」等ということも言ってはいけません。神々には、我々、下々の者には分からない事情というものがあったのでしょう。

4 「石の宝殿」の周囲を巡った後、本殿の横から階段(山肌を削って、石段にしたものです。さすが岩山ですね。)を上り、岩壁の上にある山上公園に出て「石の宝殿」を見下ろすことができます。

 「石の宝殿」の上面(現状で上になっている面)には、土がつもり、草どころか小さな木までが生えています。もっとも、造られてから1300年から1400年程度経っている(推定)ことを考えると凄いんだか、凄くないんだか微妙なところです。

土の層のすぐ下が岩の塊となると、深く根をはるのはさすがに難しいので、大樹にはなれないのでしょうね。

5 一息ついたところで、パンフレットを熟読します。行きがけ見た看板にもあるように「石の宝殿」は「日本3奇」の1つとされており、数々の歴史上の有名人が訪れています。
  
有名どころでは、安藤広重、司馬江漢、シーボルト等の名前があり、シーボルトの書いた石の宝殿のスケッチがパンフレットに載っていました。

これを見ると、彼の来たころには本殿は設けられておらず、正面の離れた位置から岩壁の間に横たわる石の宝殿の全体像を見ることができたようです(現在は本殿が正面からの見通しを遮っていますし、本殿よりも内側に入ると、接近し過ぎて、石の宝殿の全体像は捉えにくくなります)。
  
なお、比較的最近の訪問者には、松本清張や司馬遼太郎の名前もあります。確かに小説やエッセイの題材になりそうですね。
 
ちなみに、先ほど疑問に思った「日本3奇」の残り2つは、塩竃神社(宮城県)の塩釜と高千穂(宮崎県)の天の逆鉾なのだとのことです。

6 大阪からだと休日の日帰り旅行には、ちょうど良い距離かと思います。
  
見終えた後は、東隣の加古川市に寄って、鶴林寺(西の法隆寺−少し、誇大広告だと思いますが−とも呼ばれる古寺です。国宝の建物2棟があります。)に参拝に行くなり、かつめし(ご飯にトンカツ又はビーフカツとキャベツを乗せて、ソースをかけた加古川市のご当地グルメです)を食べるなりして帰るのも楽しいかと。
  
自動車があれば、加古川市から更に北上して小野市の浄土寺(国宝に指定されている快慶作の巨大な阿弥陀三尊立像は、一度は見ておきたい名品です)へ足を伸ばすのをお勧めします。(完  弁護士)
                         終

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