2017年01月29日

◆日本の脚気史

渡部 亮次郎



脚気(かっけ)と言っても、このごろでは何のことか分からない人が多
い。ビタミンB1欠乏症で最悪は死に至る病。筆者は子どものころ、疲労
回復を急ぐ為,砂糖を大量にたべたところ炎天下で昏倒。脚気が悪化して
心臓が犯されている。良く死ななかったものだ、と診断された。

砂糖でなぜ脚気になるのか。それは体内で砂糖が消化されるためには大量
のビタミンB1が消費されるからである。砂糖を多く食べれば脚気になる理
屈である。

日本で脚気がいつから発生していたのか、はっきりしていない。しかし、
『日本書紀』と『続日本紀』に脚気と同じ症状の脚の病が記載されてお
り、平安時代以降、天皇や貴族など上層階級を中心に脚気が発生した。

江戸時代に入ると、玄米にかわって白米を食べる習慣がひろまり、上層階
級のほか、武士と町人にも脚気が流行した。とくに江戸では、元禄年間に
一般の武士にも脚気が発生し、やがて地方にひろがり、また文化・文政に
町人にも脚気が流行した。

江戸を離れると、快復にむかうこともあり、「江戸患い」とよばれた。経
験的に蕎麦や麦飯や小豆を食べるとよいとされ、江戸の武家などでは脚気
が発生しやすい夏に麦飯をふるまうこともあった。

明治期には、1870年(明治3年)とその翌年から脚気がはやった。東京な
ど都市部、陸軍の鎮台所在地、港町で流行し、上層階級よりも中・下層階
級に多発し、死亡率が高かった。

『人口動態統計』(1899年(明治32年)開始)、『死因統計』(1906年
(明治39年)開始)によれば、明治末期までの国民の脚気死亡者数は、最
小6,500人(1900年)〜最大15,085人(1909年)であった。ただし当時
は、乳児脚気の知識があまりなかったため、「乳児脚気死亡」が大幅に見
落とされており、毎年1万人〜3万人が死亡していたと推測されている。

大正期以降、ビタミンB1(チアミン)をふくまない精米された白米が普及
するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったため、脚
気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も、多くの
患者と死亡者をだし、「脚気」は「結核」とならぶ二大国民病といわれた。

ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年の26,796人がピークであり、
1915年から日中戦争の拡大と移入米の減少によって食糧事情が悪化する
1938年まで年間1万人〜2万人で推移した。

ようやく1千人を割ったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する
1950年代後半のことであった(1950年3,968人、1955年1,126人、1960年
350人、1965年。

しかし、1975年頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してき
た。アルコール依存症患者にも多く、高齢社会(超高齢社会)をむかえた
今日では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されて
いる。

脚気の原因がわからなかった明治期、脚気の流行に拍車がかかり(都市部
の富裕層や陸海軍の若い兵士に多発)、その原因解明と対策が急がれていた。

脚気の原因がわからなかった理由として、いろいろな症状があるうえに病
気の形が変わりやすいこと(多様な症状と流動的な病変)、子供や高齢者
など体力の弱い者が冒されずに元気そうな若者が冒されること、一見よい
食物をとっている者が冒されて一見粗食をとっている者が冒されないこ
と、西洋医学に脚気医学がなかったこと、当時の医学にヒトの栄養に不可
欠な微量栄養素があるという知識がなかったこと等が挙げられる。

明治期の主な脚気原因説としては、「米食(白米食)原因説」(漢方医の
遠田澄庵)、「伝染病説」(エルヴィン・フォン・ベルツなど)、「中毒
説」(三浦守治など)、「栄養障害説」(ウェルニッヒなど。

ただし既知の栄養素を問題にした)が挙げられる。とりわけ、ベルツなど
西洋医学を教える外国人教官が主張した「伝染病説」は、たちまち医界で
受け入れられ、その後も内科学者によって強く支持されつづけた。

海軍最初の医学教師として招かれ、海軍軍医の育成にあたったイギリス人
医師のウィリアム・アンダーソン(1873年10月−1880年1月に在日)も伝
染病説を信じていた。しかし、当時主張されたいずれの脚気原因説も誤り
であり、未知の微量栄養素ビタミンB1(チアミン)の欠乏こそ、脚気の原
因と判明したのは後。

先覚的な業績を挙げたのが海軍軍医の高木兼寛であった。臨床主体のイギ
リス医学に学んだ高木は、軍艦によって脚気の発生に差があること、また
患者が下士官以下の兵員や囚人に多く、士官に少ないことに気づいた。

さらに調べた結果、患者数の多少は食物の違いによること、具体的にはた
んぱく質と炭水化物の割合の違いによることを発見した。

その時点で脚気の原因は、たんぱく質の不足にあり、洋食によってたんぱ
く質を多くすれば脚気を予防できると判断したという。その後、紆余曲折
をへて1884年1月15日、海軍卿名で、金給制度(当時、現金給与は食費の
節約による粗食をまねいていた)が一部みなおされ、洋食への切りかえが
はかられた。

同年2月3日、海軍の練習艦「筑波」は、その新兵食(洋食採用)で脚気予
防試験をかねて品川沖から出航し、287日間の遠洋航海をおえて無事帰港
した。

乗組員333名のうち16名が脚気になっただけであり(脚気死亡者なし)、
高木の主張が実証される結果を得た。海軍省では、「根拠に基づいた医
療」を特性とするイギリス医学に依拠して兵食改革をすすめた結果、海軍
の脚気発生率が1883年23.1%、1884年12.7%、1885年以降1%未満と激減し
た。ただし、下士官以下にパンが極めて不評であったため、翌年3月1日か
らパン食がなくなり、麦飯(5割の挽割麦)が給与されることになった。

1885年3月28日、高木は『大日本私立衛生会雑誌』に自説を発表した。し
かし日本医学界の主流は、理論法則の構築を優先するドイツ医学を範とし
ていたため、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足説)と麦飯優秀説(麦
が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方がよい)は、「原因不明の死
病」の原因を確定するには根拠が少なく、医学論理も粗雑との印象をあた
えた。

そのため、東京大学医学部を筆頭に、次々に批判された。1ヶ月後の4月
25日には、同誌に村田豊作(東京大学生理学助手)の反論が掲載され、と
くに同年7月の大沢謙二(東京大学生理学教授)による反論の一部、消化
吸収試験の結果により、食品分析表に依拠した高木の脚気原因説と麦飯優
秀の理論は、机上の空論であるとされた。

また当時の医学水準では、「食物が不良なら身体が弱くなって万病にかか
りやすいのに、なぜ食物の不良が脚気だけの原因になるのか?」との疑問
をもたれ、高木が優秀とした麦飯の不消化性も、その疑問を強めさせた。

そうした反論に対し、高木は海軍での兵食改革(洋食+麦飯)の結果を6回
にわたって公表したものの、1886年2月の公表を最後に学理的に反証しな
いまま沈黙した。

のちに高木は「当時斯学会(しがっかい)に一人としてこの自説に賛する
人は無かった、たまたま批評を加へる人があればそれはことごとく反駁
(はんばく)の声であった」と述懐したように、高木の説は、海軍軍医部
を除き、国内で賛同を得られなかった。

高木の脚気原因説と麦飯優秀の理論は間違っていたものの、「麦飯を食べ
ると脚気が減少する」という有益なエビデンスは得られていた。その後も
海軍軍医部は、日清戦争と台湾平定戦で陸軍の脚気患者が急増したとき、
石神亨と斎藤有記の両海軍軍医が陸軍衛生当局を批判した。

しかし麦飯優秀説について学問上の疑問点をあげて反論されると両軍医と
も沈黙したなど、学問上の疑問点を解消できずにいた(ビタミンを知らな
い当時の栄養・臨床医学では説明できなかった)。

麦食縮小以降、脚気が増加する海軍 。高木の思いに反して兵員には、
「銀しゃり」という俗語のある白米飯にくらべて麦飯も不評であり、1890
年2月12日、「海軍糧食条例」の公布によって糧食品給制度が確立され
(1945年(昭和20年)まで継続)、以後、主食はパンと米飯(白米飯ない
し麦飯)の混用となった。1917年(大正6年)以降、海軍では麦の割合が2
割5分まで低下した[11]。

学問上の疑問点は解消できなかったものの、日露戦争時の海軍は、87名の
脚気患者が発生しただけであり、陸軍の脚気惨害と対照的であった。

当時、「脚気問題に関してつねに引きあいに出されるのは、陸軍は脚気患
者が多数なのに反して、海軍ははなはだ少数なことである。したがって海
軍はつねに称賛嘆美され、陸軍はつねに攻撃非難の焦点になっているとさ
れるような状況であった。

ただし日露戦争の頃から海軍は、「脚気」をほかの病名にかえて脚気患者
数を減らしている、という風評があった。実際に海軍の統計をみると、脚
気の入院率が50%〜70%と異常に高いことが指摘されている(通常、脚気
の入院率は数%)。

その後、高木とその後任者たちのような薩摩閥のイギリス医学系軍医では
なく、栃木県出身で東京大学医学部卒の医学博士本多忠夫が海軍省医務局
長になった1915年12月以後、海軍の脚気発生率が急に上昇した。

脚気患者の増加をうけて海軍省では、1921年に「兵食研究調査委員会」を
設置し、1930年まで海軍兵食の根本的な調査を行った。兵員に人気のない
麦飯で麦の比率をあげることも、生鮮食品の長期鮮度保持も難しいなか、
苦心の結果、島薗順次郎が奨励していた胚芽米に着目した。

1927年から試験研究をして良好な成績を得ることができたため、海軍省は
1933年9月に「給与令細則」で胚芽米食を指令した。しかし、胚芽米をつ
くる機械を十分に設置できなかったことと、腐敗しやすい胚芽米は脚気が
多発する夏に供給するのが困難であった。

このため、現場で研究の成果が十分にあらわれず、脚気患者数は、1928年
1,153人、日中戦争が勃発した1937年から1941年まで1,000人を割ることが
なく、12月に太平洋戦争が勃発した1941年は3,079人(うち入院605人)で
あった。

また、現場で炊事を行う主計科では、兵員に不人気な麦の比率を意図的に
下げ、余った「帳簿外」の麦を秘密裏に海へ投棄する(「レッコー」と呼
ばれた)ことも戦前戦中を通して日常的に行われ、脚気の増加に拍車を掛
けた。

戦前、海軍の脚気が増加した原因の一つは、脚気の診断が進歩して不全型
まで統計に上るようになった事」(それ以前、神経疾患に混入していた可
能性がある)と指摘されていた。

また、その他の原因として、兵食そのものの問題(実は航海食がビタミン
欠乏状態)、艦船の行動範囲拡大、高木の脚気原因説(たんぱく質の不足
説)が医学界で否定されていたにもかかわらず、高木説の影響が残り、た
んぱく質を考慮した航海食になっていたこと、「海軍の脚気は根絶した」
という信仰がくずれたこととの指摘もある。

海軍の兵食改革(洋食+麦飯)に否定的な陸軍は、日清戦争時に勅令で
「戦時陸軍給与規則」を公布し、戦時兵食として「1日に精米6合(白米
900g)、肉・魚150g、野菜類150g、漬物類56g」を基準とする日本食を採用
した(1894年7月31日)。

ただし、大本営陸軍部で野戦衛生長官をつとめる石黒忠悳(陸軍省医務局
長)の米飯過信・副食軽視が災いの大もとであった。

戦時兵食の内容が決められたものの、軍の輸送能力が低いこともあり、し
ばしば兵站がとどこおった。とくに緒戦の朝鮮半島では、食料の現地調達
と補給に苦しみ、平壌攻略戦では野津道貫第五師団長以下が黒粟などを口
にする状況であった。

黄海海戦後、1894年10月下旬から遼東半島に上陸した第二軍の一部で脚気
患者が出ると、経験的に夏の脚気多発が知られているなか、事態を憂慮し
た土岐頼徳第二軍軍医部長が麦飯給与の稟議を提出した(1895年2月15日)。

しかし、その「稟議は施行せらるる筈(はず)なりしも、新作戦上海運す
こぶる頻繁なる等、種々の困難陸続発起し、ついに実行の運(はこび)に
至らさりしは、最も遺憾とする所なり」と、結局のところ麦飯は給与され
なかった。

その困難の一つは、森林太郎(鴎外)第二軍兵站部軍医部長が反対したと
される(もっとも上記のとおり勅令の「戦時陸軍給与規則」に麦はなく、
また戦時兵食を変更する権限は野戦衛生長官にあり、当時の戦時衛生勤務
令では、土岐のような軍の軍医部長は「戦況上……野戦衛生長官ト連絡ヲ絶
ツ時」だけ、同長官と同じ職務権限があたえられた[23])。

下関条約(日清講和条約)調印後の台湾平定(乙未戦争)では、高温とい
う脚気が発生しやすい条件のもと、内地から白米が十分に送られても副食
が貧弱であったため、脚気が流行した。

しかも、1895年9月18日付けの『時事新報』で、石神亨海軍軍医が同紙に
掲載されていた石黒の談話文「脚気をせん滅するのは、はなはだ困難であ
る」(9月6日付け)を批判し、さらに11月3日と5日付けの同紙には、斎藤
有記海軍軍医による陸軍衛生当局を批判する文が掲載された。

両名とも、麦飯を給与しない陸軍衛生当局を厳しく批判していた。しか
し、11月に「台湾戍兵(じゅへい)の衛生について意見」という石黒の意
見書が陸軍中枢に提出されており、同書で石黒は兵食の基本(白米飯)を
変えてはならないとした。

そうした結果、かつて遼東半島で麦飯給与に動いた土岐が台湾に着任し
(1896年1月16日)、独断で麦飯給与に踏み切るまで、脚気の流行が鎮ま
る兆候がなかった。

ただし、その越権行為は明白な軍規違反であり、土岐(陸軍軍医総監・序
列第三位)は帰京(即日休職)を命じられ、5年後そのまま予備役に編入
された(軍法会議などで公になると、石黒(同・序列第一位)の統率責任
と軍規違反の経緯などが問われかねなかった)。

陸軍は、240,616人を動員(戦時編制)し、そのうち174,017人(72.3%)
が国外動員であった。また、文官など6,495人、物資の運搬に従事する軍
夫10万人以上(153,974人という数字もある)の非戦闘員も動員した。

ちなみに、総病死者20,159人で、うち脚気以外の病死者が16,095人
(79.8%)であった(陸軍省医務局編『明治二十七八年役陸軍衛生事
蹟』)。その他の戦死者数には、戦死1,132人・戦傷死285人・変死177人
(ただし10万人以上、雇用された軍夫を含まず)[など、さまざまな数字
がある。

多数の病死者が出たように、衛生状態が悪いこともあって戦地で伝染病が
はやり、また広島大本営で参謀総長の有栖川宮熾仁親王が腸チフスを発症
したり、出征部隊の凱旋によってコレラが大流行したりするなど、国内も
安全とは言えなかった(日本のコレラ死亡者数は、1894年314人、1895年
40,241人、1896年908人と推移し、とりわけ'95年の死亡者数は日清戦争の
戦没者数を大幅に上まわった)。

とくに台湾では、暑い季節にゲリラ戦にまきこまれたため、伝染病がまん
えんし、1895年10月28日、近衛師団長の北白川宮能久親王がマラリアで陣
没し、山根信成近衛第二旅団長も戦病死したほどであった。なお、台湾で
の惨状を伝える報道等は途中からなくなっており、石黒にとっても陸軍中
枢にとっても、国内が戦勝気分に浸っているなか、隠蔽(いんぺい)した
い出来事であった。

上記の『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』によれば、陸軍の脚気患者は、
日清戦争とその後の台湾平定をあわせて41,431人(脚気以外をふくむ総患
者284,526人。凍傷も少なくなかった)、脚気死亡者4,064人(うち朝鮮
142人、清国1,565人、台湾2,104人、内地253人[32])であった。このよう
に陸軍で脚気が流行したにもかかわらず、衛生の総責任者である石黒は、
長州閥のトップ山県有朋や薩摩閥のトップ大山巌、また児玉源太郎などと
懇意で、明確な形で責任をとることがなく[33]、陸軍軍医の人事権をもつ
トップの医務局長を辞任した後も、予備役に編入されても陸軍軍医部(後
年、陸軍衛生部に改称)に隠然たる影響力をもった。

義和団の乱での派遣部隊脚気流行 [編集]トップの陸軍省医務局長が小
池正直にかわっていた1900年(明治33年)、義和団の乱(北清事変)が勃
発し、第5師団(戦闘員15,780人、非戦闘員4,425人、兵站部員1,030人)
が派遣された[34]。そのときも、首都北京をめぐる局地戦が主で輸送に支
障が少なかったにもかかわらず、前田政四郎(同師団軍医部長)が麦飯の
給与を希望しながら麦が追送されなかったこともあり、1年ほどで2,351人
の脚気患者がでた[35]。ちなみに戦死者349名、負傷者933名。

1901年5月31日、凱旋した第5師団にかわって清国駐屯軍がおかれたとき
(北京議定書に基づき編成)、小池が同軍病院長にあたえた訓示は、上記
の台湾平定戦時に土岐が独断で麦飯を給与したことに対し、石黒が発した
麦飯給与禁止の訓示とほぼ同じ内容であった。

なお、上記の前田は、『軍医学会雑誌』につづけて投稿(1901年5月と7月
に掲載)し、とりわけ7月の投稿では遠まわしの表現で米飯が脚気の原因
という認識をしめした。

しかし、翌1902年4月の『明治33年北清事変ノ衛生事項ニ関スル所見』に
は、なぜか脚気のことをまったく記述していない。そして日清戦争で先陣
をつとめ、義和団の乱でも唯一派遣された第5師団から、やや格下の第11
師団に異動した。

日露戦争での陸軍脚気惨害

日露戦争のときも、陸軍大臣が麦飯推進派の寺内正毅であり(ちなみに陸
軍出身の桂太郎内閣総理大臣も麦飯推進派)、麦飯給与を主張する軍医部
長がいたにもかかわらず、大本営陸軍部が「勅令」として指示した戦時兵
食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。

その理由として輸送の制約が挙げられ、陸軍は兵員と兵器と弾薬などを送
るのが精一杯で、食糧について必要限度の白米を送るのがやっとであった
(近代地上戦での想定補給量の一例)。さらに「麦は虫がつきやすい、変
敗しやすい、味が悪い、輸送が困難などの反対論がつよく」その上、脚気
予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとされる。白米飯は庶民あこが
れのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑(さげす)まれていた世情
を無視できず、部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたい
という心情があった[42]。

しかし戦地では、1904年(明治37年)5月頃から脚気が増えはじめ、気温
の上昇とともに猛烈な勢いで増加した。このため、8月から軍の一部で麦
飯が給与された。

翌年3月10日に寺内陸軍大臣の「出征部隊麦飯喫食ノ訓令」が発せられ、
精米4合と挽割麦2合が給与されることとなった。また国内で、脚気患者の
大量発生と軍医不足という悲惨な状況が知られはじめると、陸軍衛生部さ
らに大本営の野戦衛生長官で満州軍総兵站監部の総軍医部長、小池正直
(陸軍省医務局長)に対する批判が高まった。戦後も、小池が陸軍軍医
トップの医務局長を辞任するまで、『医海時報』に陸軍批判の投稿がつづ
いた。

陸軍省編『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』第2巻統計、陸軍一等軍医
正・西村文雄編著『軍医の観たる日露戦争』によれば、国外での動員兵数
999,868人のうち、戦死46.423人(4.6%)、戦傷153,623人(15.4%)、戦
地入院251,185人(25.1%)(ただし、資料によって病気の統計値が異な
る])。

戦地入院のうち、脚気が110,751人(44.1%)を占めており、在隊の脚気患
者140,931人(概数)をあわせると、戦地で25万人強の脚気患者が発生し
た(なお兵種別に戦地入院の脚気発生率をみると、歩兵1.88%、騎兵
0.98%、砲兵1.46%、工兵1.96%、輜重兵1.83%、非戦闘員の補助輸卒
5.32%であり、「軍夫」とよばれていた補助輸卒の数値がいちじるしく高
い(1904年2月〜翌年4月)。患者数も補助輸卒は、歩兵の41.013人につい
で30,559人と多く、過酷な条件のもと任務についていた)。

入院脚気患者のうち、27,468人(死亡5,711人、事故21,757人)が死亡し
たと見られる(戦死者中にも脚気患者がいたものと推測される)。

陸軍省主導による臨時脚気病調査会の設置

森林太郎

小説家としての森鴎外で著名陸軍から多数の犠牲者が出たものの、日露戦
争が終わると、世論も医学界も脚気問題への関心が急速に薄れてしまう。

世の関心は、凱旋将兵の歓迎行事に、医学界の関心は、「医師法改正法
案」問題に移っていた。『医海時評』が脚気問題を取り上げつづけて孤軍
奮闘するなか(ときにはマッチポンプさえして陸海軍の対立をあおっ
た)、1908年、脚気の原因解明を目的とした調査会が陸軍省に設置された
(同年5月30日に勅令139号「臨時脚気病調査会官制」が公布され、7月4日
陸軍大臣官邸で発足式)。

当時、陸軍大臣であった寺内正毅の伝記によると、発案者は陸軍省医務局
長に就任してまもない森林太郎(ただし日清戦争のとき、石黒野戦衛生長
官に同調)で、寺内自身も熱心に活動したという。

その臨時脚気病調査会は、文部省(学術研究を所管)と内務省(衛生問題
を所管)から横槍が入ったものの、陸軍大臣の監督する国家機関として、
多額の陸軍費がつぎこまれた。


北里柴三郎発足当初の調査会は、委員長(森・医務局長)と幹事(大西亀
次郎医務局衛生課長)、委員18名、臨時委員2名(青山胤通東京帝国大学
医科大学長、北里柴三郎伝染病研究所長)の計22名で構成された。委員18
名の所属をみると、いち早く麦飯を採用していた海軍から2名の軍医が参
加したほか、伝染病研究所3名、陸軍軍医6名、京都帝大2名、東京帝大3
名、不明2名(日本医史学の大家富士川游・医学博士岡田栄吉)であっ
た。研究の成果は、陸軍省第一会議室などで開かれる総会(委員会)で、
定期的に発表された。

ロベルト・コッホの助言とベリベリの調査

ロベルト・コッホ調査会の発足式が開かれる直前の1908年6月22日、森
(委員長)と青山・北里(臨時委員)の3人は、来日中の世界的な細菌学
者ロベルト・コッホ(1905年ノーベル生理学・医学賞受賞)と帝国ホテル
で会っていた。

脚気に詳しくないと前置きをしたコッホから、東南アジアで流行するベリ
ベリを研究せよ等の研究法を助言された。調査会の発足後、さっそくバタ
ビア(ジャカルタ)付近の現地調査が行われ、「動物実験とヒトの食餌試
験」という新手法が日本に導入されるきっかけになった。

1908年、都築甚之助(陸軍軍医)・宮本叔(東京帝大)・柴山五郎作(伝
染病研究所)の3委員が派遣されたものの(9月27日〜11月28日まで滞
在)、現地では白米をやめて熟米と緑豆などを食べるようになっており、
また1903年のアチェ戦争(スマトラ島)終結もあってベリベリの入院患者
がほとんどいなかった。

それでも現地調査の結果、ベリベリと日本の脚気が同じものであることが
明らかにされた。しかし、伝染病説の証拠(脚気菌)がみつからず、食物
原因説に傾くこともなく、歯切れの悪いあいまいな原因論を報告した。

ちなみに帰国後の3委員は、宮本と柴山が上司の青山・北里(臨時委員)と
ともに伝染病説を支持しつづけ、都築が栄養欠乏説に転換した。

未知栄養素の抽出

都築甚之助の動物脚気実験と製糠剤アンチベリベリン開発

クリスティアーン・エイクマン「動物実験とヒトの食餌試験」という新手
法の国内導入で先頭に立ったのは、帰国した都築であった。都築は、動物
脚気の発生実験(エイクマンの追試)を行い、1910年3月の調査会と4月の
日本医学会で発表した。

動物実験が終了し、糠の有効成分の研究(抽出と効否試験)に進んでいる
ことを公表したのである。また1911年、都築と志賀潔(1910年8月委員と
なる)は、臨時脚気病調査会の附属研究室で、脚気患者を対象に米糠の効
否試験を行った。

その結果、服用者の58.6%が治癒ないし軽快した。効否を判定できる数値
ではなかったものの、試験をかさねる価値は十分あった。しかし、都築が
12月9日に委員を辞任し、また糠の有効性を信じる委員がいなかったた
め、米糠の効否試験は1年で終わった。

都築は、翌1911年4月、東京医学会総会で「脚気ノ動物試験第二回報告」
を発表し、また辞任していたものの、森委員長の配慮によって調査会でも
発表した(俗説で森は伝染病説を盲信し、それ以外の説を排斥したかのよ
うにいわれるが、必ずしもそうではなく、都築の未知栄養欠乏説にかなり
理解をしめしていたとの見解もある)。

その内容は、糠の有効成分(アンチベリベリン原液)を抽出するととも
に、それでヒトの脚気治療試験をしたというものであり、世界に先行した
卓越した業績であった。

さらに脚気の原因は、未知の不可欠栄養素の欠乏によるものであると認定
し、そのために主食(白米)だけが問題ではなく、副食の質と量が脚気の
発生に大きく関係する、と指摘した。これは今日の医学にも、そのまま通
用する内容であり、とくに副食への着眼は、先人の誰も気づいていないも
のだった。

「第二回報告」以後も、都築はアンチベリベリンの研究にはげみ、ついに
その製剤を治療薬として販売した(1911年4月アンチベリベリン粉末・丸
などを販売。同年9月、注射液を販売)。

有効な脚気薬がなかった当時、ビタミンB1抽出剤(ただし不純化合物)の
アンチベリベリンの評判は高く、「純粋」ビタミンB1剤が登場する昭和期
のはじめまでよく売れ、広く愛用されることになる。

鈴木梅太郎のオリザニン発見

農学者の鈴木梅太郎は、1910年6月14日の東京化学会で、「白米の食品と
しての価値並に動物の脚気様疾病に関する研究」を報告した。ニワトリと
ハトを白米で飼育すると脚気様の症状がでて死ぬこと、糠と麦と玄米には
脚気を予防して快復させる成分があること、白米はいろいろな成分が欠乏
していることを認めた。

糠の有効成分につよい興味をもった鈴木は、以後その成分の化学抽出をめ
ざして努力した。同年12月13日の東京化学会で第一報を報告し、翌1911年
1月の東京化学会誌に論文「糠中の一有効成分に就て」が掲載された。と
くに糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、抗脚気因子にとどまら
ず、ヒトと動物の生存に不可欠な未知の栄養素であることを強調し、ビタ
ミンの概念をはっきり提示していた。ただし、糠の有効成分を濃縮して樹
脂状の塊(粗製オリザニン)を得たものの、結晶にはいたらなかった。
1912年(明治45年)、ドイツの『生物化学雑誌』に掲載された論文で、ピ
クリン酸を使用して粗製オリザニンから有効成分を分離製出、つまりオリ
ザニンを結晶として抽出したこと、その方法などを発表した[55]。

しかし、1911年(明治44年)10月1日、オリザニンが販売されたものの、
都築のアンチベリベリンがよく売れたのに対し、医界に受け入れられな
かった(8年後の1919年(大正8年)、ようやく島薗順次郎がはじめてオリ
ザニンを使った脚気治療報告を行った)。なお、上記のオリザニン結晶も
ニコチン酸をふくむ不純化合物で、純粋単離に成功するのが1931年(昭和
6年)であった。その純粋単離の成功はオリザニンが販売されて20年後の
ことであり、翌1932年(昭和7年)、脚気病研究会で香川昇三が「オリザ
ニンの純粋結晶」は脚気に特効のあることを報告した。

医学界の混乱 [編集] 臨時脚気病調査会による食餌試験と食物調査 [編
集]都築に刺激されて調査会でも、1910年(明治43年)3月-10月と1911年
(明治44年)6月〜翌年10月の2回にわたり、実地に食餌試験が行われた
[56]。しかし、試験方法に欠陥があり(試験委員5人の技量と判断に差が
あり、また副食が規定(コントロール)されていなかった)、食米と脚気
発生の関係について明確な結論をえられなかった。他方、外国など各所の
脚気流行について現地調査をし、食物との関係も調査していた。とくに東
南アジアでの脚気研究は、「脚気は未知栄養物質の欠乏による欠乏性疾
患」と結論される段階にまで進んでいた。しかし国内では、依然として伝
染病説と中毒説の勢いがつよく、「未知栄養欠乏説」はなかなか受けいれ
られず、脚気の原因説をめぐる混乱と葛藤がつづいた。

混乱した要因 [編集]国内の脚気医学が混乱していた要因として、三つ
のことが挙げられる[57]。第一の混乱要因は、都築によるエイクマン追試
により、脚気の原因研究は次の段階に進むものの、同時に新たな論争をも
たらしたことである。端的にいえば、「ニワトリの白米病と、ヒトの脚気
が同じなのか違うのか」、「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」
が争点になったのである。前者の動物白米病(神経麻痺のみ)とヒトの脚
気(多様な症状と流動的な病変)とが「同じ」か「違う」かの問題は、類
似点と相違点のどちらを重要視するかのという選択の問題でもあった。そ
の意味で、そもそも脚気患者をみたことがないヨーロッパの研究者と異な
り、日本の中心的な基礎医学者が相違点を選択したのは、必ずしも誤りと
いえない[58]。結果的にその選択は、ヨーロッパでの「実験医学」流行に
便乗し、動物実験だけで安易に未知栄養欠乏説に移行しようとする研究グ
ループを抑制した。脚気の原因を解明するには、動物白米病と脚気の
ギャップをうめる研究が必要であった。

後者の「米糠はヒトの脚気に効くのか効かないのか」について意見が分か
れた最大の要因は、糠の有効成分(ビタミンB1)の溶解性にあった。当時
は、糠の不純物をとりのぞいて有効成分を純化するため、アルコールがつ
かわれていた。

しかし、アルコール抽出法では、糠エキス剤のビタミンB1が微量しか抽出
されなかった。そのため、脚気患者とくに重症患者に対し、顕著な効果を
上げることができなかったのである(通常の脚気患者は、特別な治療をし
なくても、しばらく絶対安静にさせるだけで快復にむかうことが多かっ
た)。したがって、糠製剤(ビタミンB1が微量)の効否を明確に判定する
ことが難しく、さまざまな試験成績は、当事者の主観で「有効」とも「無
効」とも解釈できるような状態であった。

第二の混乱要因は、脚気伝染病説が根づよく信じられていたにもかかわら
ず、肝心の原因菌が発見されなかったことである。それでも伝染病説は否
定されることなく、1914年(大正3年)に内科学の権威である青山胤通が
『脚気病論』を著し、三浦謹之助のドイツ語論文「脚気」が掲載され、林
春雄が日本医学学会総会で「特別講演」を行い、いずれも伝染病説を主張
した。

もともと西洋医学を教える外国人教官が主張した伝染病説は、たちまち医
界で受け入れられ、その後も根づよい支持があった。当時の東京帝大で
は、内科学(青山・三浦)、薬物学(林)、病理学(長与又郎・緒方知三
郎)など臨床医学と基礎医学の双方が「未知栄養欠乏説」に反対していた。

第三の混乱要因は、糠の有効成分の化学実体が不明であったことである。
アンチベリベリン(都築甚之助)、ウリヒン(遠山椿吉)、銀皮エキス
(遠城兵造)、オリザニン(鈴木梅太郎)、ビタミン(フンク)のすべて
が不純化合物であった。たとえば、オリザニンの純粋単離に成功するのが
上記のとおり1931年(昭和6年)であり、翌1932年の脚気病研究会で、オ
リザニン「純粋結晶」は脚気に特効のあることが報告された。

ビタミン欠乏説の確定 [編集] 欧米のビタミン学の影響 [編集]
カジュミシェ・フンク国内の脚気医学が混乱している中、欧米ではビタミ
ン学が興隆しつつあった。カジュミシェ・フンクは1912年2月に「ビタミ
ン」「ビタミン欠乏症」という新しい概念を提唱し、1914年(大正3年)
に単行本『ビタミン』を出版した。同書は、『イギリス医学雑誌』で紹介
され、世界に知られることになった。結果的に学術論文よりも、単行本で
フンクの新概念が世界の医界で定着した。

結局のところ、欧米での研究動向は、国内に決定的な影響を与えた。1917
年(大正6年)、田沢鐐二(東京帝大、臨時委員)・入沢達吉(東京帝大・
内科学教授、1923年(大正12年)に委員となる)らが糠エキス有効説に変
説[59]。1918年(大正7年)、隈川宗雄(東京帝大・生化学教授、委員)が
ビタミン欠乏説を主張(なお隈川は同年4月6日に没し、門下生の須藤憲三
委員が10月16日に代理報告)。

1919年(大正8年)、島薗順次郎(同年9月、臨時委員となる)が日本食に
脚気ビタミンの欠乏があり得ることを証明し、脚気ビタミン欠乏説を唱
導。1921年(大正10年)、大森憲太(慶應大)と田口勝太(慶應大)が
別々にヒトのビタミンB欠乏食試験を行い、脚気はビタミン欠乏症に間違
いないと主張した。1921年(大正10年)で脚気ビタミン欠乏説がほぼ確定
した(大規模な試験により、完全に確定するのが数年後)。

臨時脚気病調査会による確定 [編集]1922年(大正11年)10月28日、秋
の調査会総会(第27回)では、23の研究発表があり、ほとんどがビタミン
に関するものであった。翌1923年(大正12年)3月3日の第28回総会では、
脚気の原因が「ビタミンB欠乏」なのか「ビタミンBにある付随因子が加
わったもの」なのかに絞られていた。

そこで大規模なヒトのビタミンB欠乏食試験を実施するため、調査会の予
算2万円のうち8千円が使われることになった。1924年(大正13年)4月8日
の第29回総会では、36の研究発表があり、「脚気の原因は、ビタミンB欠
乏である」ことが99%確定した。99%というのは、実験手法の誤差の範囲
について島薗が厳密すぎて研究を深めることを主張したためである。翌
1925年(大正14年)、島薗も同調し、脚気ビタミン欠乏説が完全に確定し
た[60]。

1924年(大正13年)11月25日、勅令第290号が公布されて同日、調査会が
廃止された。脚気の原因がほぼ解明されたことと、政府の財政緊縮が理由
とされる。ただし、未発表の研究成果についても調査会の業績であること
から、翌1925年(大正14年)6月3日、いつものとおり陸軍省第一会議室で
報告会が開かれた。約20名の元委員が出席し、20ほどの研究発表があっ
た。その席上、入沢(東京帝大)と北島多一(慶應大、調査会発足時から
の最古参委員)の提案により、後日、脚気病研究会が発足することになる
(元委員がすべて参加)。

なお、16年間に委員として39人、臨時委員として13人が参加した調査会で
は、上述のとおり第27回総会で23、第29回総会で36、廃止翌年にも約20の
研究発表がなされる等、多くの研究が行われた。その中には、個人の業績
として公表されたものも含まれる。また、脚気ビタミン欠乏説を確定した
調査会は、その後の脚気病研究会の母体(元委員のすべてが参加)となる
など、脚気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づ
ける見解がある一方[61]、成果を挙げられなかったとする見解もある[62]。

治療・予防法の確立へ [編集] 脚気病研究会の創設と中絶 [編集]1925
年(大正14年)秋、脚気病研究会は、臨時脚気病調査会の廃止をうけて創
設された[63]。翌1926年(昭和元年)4月6日の第一回総会以降、毎年、研
究報告がなされた。とくに東京帝大・島薗内科の香川昇三は、1932年(昭
和7年)に鈴木梅太郎の「オリザニン純粋結晶」[64]が脚気に特効がある
ことを報告した。

さらに翌年、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告した(1927
年(昭和2年)ビタミンBはB1とB2の複合物であることが分かり、どちらが
脚気の原因であるのかが問われていた)。また、胚芽米の奨励でも知られ
ていた島薗順次郎は、脚気発病前の予備状態者がいることを認め、1934年
(昭和9年)に「潜在性ビタミンB欠乏症」と名づけて発表した。

真に脚気を撲滅するには、発病患者の治療だけでなく、潜在性脚気を消滅
させることが不可欠であることを明らかにし、脚気医学に新生面をひらい
た。そうした学術業績により、次の課題は、ビタミンB1自体の研究、治療
薬としての純粋B1剤の生産、潜在性脚気を消滅させる対策にしぼられてき
た。しかし、脚気病研究会のキーパーソンである島薗が1937年(昭和12
年)4月に没した。また同年7月に日中戦争が勃発したため、医学者の関心
は、地味な学術研究よりも時流の戦時医学にむけられた。そして脚気病研
究会は、以後、中絶された。

なお、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病であった
(上記のとおり脚気死亡者が毎年1万人〜2万人)。その理由として、ビタ
ミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこ
と、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分
の摂取が困難であったことが挙げられる。

ビタミンB研究委員会、「特効薬」の開発 [編集]太平洋戦争末期の1944
年(昭和19年)11月16日、ビタミン生産が思いどおりにならない中、突然
「ビタミンB1連合研究会」という国家総動員的な組織が誕生した[65]。会
員の構成、発会の趣旨、研究の方針は、かつての臨時脚気病調査会(陸軍
大臣所管の国家機関)・脚気病研究会(学術研究機関)とよく似ていた。
ビタミンB1連合研究会は、3回の開催で敗戦となったものの、解散を命じ
られることなく、改名しながら「ビタミンB研究委員会」(1954年(昭和
29年)以降)としてつづく。

1950年(昭和25年)12月2日の研究会で、京都大学衛生学の藤原元典は、
ニンニクとビタミンB1が反応すると「ニンニクB1」という特殊な物質がで
きると報告した。さらに藤原は、武田薬品工業研究部と提携して研究をす
すめ、1952年(昭和27年)3月8日に「ニンニクB1」はニンニクの成分アリ
シンがB1(チアミン)に作用してできる新物質であること(よって「アリ
チアミン」と命名)。そのアリチアミンは、体内でB1にもどり、さらに腸
管からの吸収がきわめてよく、血中B1濃度の上昇が顕著で長時間つづく、
という従来のビタミンB1にはない特性があることを報告した。B1誘導体ア
リチアミンの特性には、研究会の委員一同が驚き、以後、研究会では、そ
の新物質の本体を解明するため、総力をあげて研究が行われた。

また、藤原と提携して研究をすすめる武田薬品工業は、アリチアミンの製
剤化に力を入れた(製品開発のきっかけは、旧陸軍から脚気の治療薬開発
を依頼されたこと)。多くのアリチアミン同族体を合成し、薬剤に適する
製品開発につとめた結果、ついに成功したのである。1954年(昭和29
年)3月、アリチアミンの内服薬「アリナミン錠」が、翌年3月には注射薬
の「アリナミン注」が発売された。

ともに従来のビタミンB1剤に見られない優れた効果をしめした。その効果
によってアリナミンは、治療薬・保健薬として医学界にも社会にもひろく
歓迎され、また同業他社をおおいに刺激した。そして1968年(昭和43年)
までに11種類のB1新誘導体が発売されたのである。アリナミンとその類似
品の浸透により、手の打ちどころがなかった潜在性脚気が退治されること
となった。国民の脚気死亡者は、1950年(昭和25年)3,968人、1955年
(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92
人と減少したのである[66]。

しかし、1975年(昭和50年)には脚気が再燃し[67][68]、原因には砂糖の
多い飲食品や副食の少ないインスタント食品といったビタミンの少ない
ジャンクフードがあることが分かった[69]。

トリビア [編集]脚気に苦しんでいた明治天皇は、海軍や漢方医による
食事療法を希望したとき、ドイツ系学派の侍医団から反対されて西洋医学
そのものへの不信をいだき、一時的に侍医の診断を拒否するなどしたた
め、侍医団は天皇の糖尿病の悪化に対して有効な治療を取れなかったので
はないか、ともいわれている[70]。

明治期から昭和初期にかけて「迷信的」といわれて絶滅寸前だった鍼灸医
等の漢方医であったが、栄養起源説が定着する前に明治末期より西洋医学
の栄養学の概念を取りいれ、麦飯の推奨や脚気治療に対して味噌汁に糠を
投入する「糠療法」を提唱し、民間療法として取りいれはじめた。これが
効果を示したことにより、漢方医の社会的地位の保持に貢献した側面がある。
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