2017年02月02日

◆皆が 正義の戦士?

眞鍋 峰松
   


昨年12月中頃に脳梗塞が発症し、原因となった頸動脈の血管内の壁の中に溜まったコレステロールの盛り上り(アテロームと呼ぶそうだ)を除去するための頸動脈内膜剥離手術を受けてからほぼ半年が経った。

幸い、今では日常生活を完全に取り戻し、首筋に残った生々しい傷跡も日々薄らぎ、傷の引き攣れの後遺症である発音・発声不明瞭の状態も徐々に解消。ようやく他人との円滑な会話も可能になった。 また同時に、読書や日誌等の文章の作成といった知的作業に関する意欲を失い完全にこれらの作業からも遠ざかっていたのだが、この間日々の新聞記事を丹念にチェックすることのみが日課だった。

その中で気付いたのが、今年に入ってから政治家、スポーツ選手、芸能人、企業のトップなどによる謝罪事象が相次いでいることである。 女性タレントの不倫騒動、日本を代表する大企業、次々と出てくる国会議員や地方議員の政治資金絡みの不正経理処理、その極め付けが現在マスコミ報道を賑わせて本当に毎日枚挙に暇がない状態である。

ただ、記述するに当って、まず以下を前提として明らかにしておきたい。 即ち、ネット上であろうがなかろうが、何人も道義に反することが行われていると認識した場合には本来、匿名ではなく記名での公表や抗議を唱えるべきであろうし、それ以前に当事者に対し「陳謝しなければならないことなど、するな!」と伝えるべきことだろうことである。

 ある日の新聞紙上で見かけたSJW=ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(social justice warrior)という単語。直訳すれば、社会正義の戦士。

もともとはフェミニズム(女性の社会・政治・法律上の権利拡張を主張する考え)のために戦う人たちという意味合いからスタートした言葉だったそうだが、今は正義感をかざして社会悪と思えるようなことを一生懸命叩く人たちのことを指す。その本人たちは正義感の下に発言をしていると思っているので、それが悪いこと或いは思い込みや思い違いなどとは露ほども疑わず、むしろ、社会に代わり制裁をしているという優越感や責任感すら感じている人たち。 

しかし、このSJWという言葉は海外では寧ろ侮蔑的な意味で使われ、特にネット上での匿名の発言は遠くの安全地帯から石を投げているような行為として考えられ、馬鹿にされている、とのことである。                 
皮肉なことに、この記事を読んで直ちに思い出したのが、作家の田辺 聖子さんの「人を責めることが大好きな人があるね、正義の味方の中には」という言葉。 
               
中国の大儒者朱子(朱熹)は「血気の怒りはあるべからず。理義の怒りはなかるべからず」と説いている。朱子は、怒りを二つの種類に分け、一は非、他は必要なものとしている。血気の怒りとは、感情的な怒り、自己中心から発したそれで、朱子が戒めてきたのは全て、この種のものである。

しかし、怒りには、もう一つの種類のものがある。客観的な眼や正義感に根をおいた、公的な怒り、いわゆる公憤といった性質のものだ。自分を超えた立場からの怒り、と言ってもよかろう。この種の怒りは「なかるべからず」、
つまり、なすべきと朱子は言う。確かに、悪や非道に対して人々が怒ることが無かったら、正義は行われず、家も社会も滅茶苦茶になってしまう。司法機関とは、この「理義の怒り」を、社会的に担保し行使する役所であるといえる。翻って、今の世相をみれば、どうだろう。

私には、私的な怒りが充満し、反面、公的な怒りが不足しているように見えて仕方がない。もっと皮肉な言い方をすれば、今の世相には怒りが十二分に充満している。だが、そこに見られる怒りの意見表明は、総論の形をとった各論の怒りとでも言うか、表面は一見正義感に根をおいた公的な怒りだが、その根本的な処においてはそれぞれが各人・各層の権益擁護や地位の保全、場合によっては自己の日頃の鬱憤晴らしのための過剰反応に過ぎない場合が多い、とさえ言えるのではないか。 まして、ネット上での証拠も根拠も不十分な匿名の告発めいた投書などはその典型とでも言えるような気がする。                                         
確かに、今の世相、政治面ではとりわけ野党側が相も変わらず日本の直面する危機的現状を余所に政局に踊り続け、経済では企業が企業倫理や安定した雇用継続という社会的責務に鈍感になり、教育は人間育成という大切な目標を見失い、家庭では夫婦・親子間に相互理解を欠き、世間では人間同士、互いに思いやりや規律・厳しさを見失った状態。また、それらに警鐘を鳴らすべきマスコミ界でも、本筋を見誤ることが多くなっている。

それでは、どうするべきなのか。そこは私の如き微力な人間には、到底手に余る。その私としては、各人がそれぞれ“一燈を掲げ一隅を照らす”という心構えで前に進むしかない、と思える。
 古代ローマの哲人・政治家キケロには「彼等は他人に向かって語ることを学んだ。しかし、己に向かって語ることを学ばなかった」という苦味一杯の言葉がある。「他人に向かって語ることを学んだ」というよりは、「語ることを好んだ」「語ることを楽しんだ」と言うべきなのかもしれない。 

まさに スイスの哲学者カール・ヒルティの述べた「人間の真実の正しさは、礼節と同様、小事における行いにあらわれる。そして、小事における正しさは道徳の根底から生じる。これに反して、大袈裟な正義は、単に習慣的であるか、或いは功智に過ぎぬことがあり、人の性格について、未だ判明を与えぬことがある」ということなのだろう。

特に最近のマスコミや学者、評論家たちには、すぐに他人に対して陳謝を求める傾向にあるように思うのだが、一体、誰に対する陳謝なのか、どのような理由で陳謝を求めているのだろうか。その中には摩訶不思議な現象である場合も多々見受けられる。 

そこには、過ちを犯した事実が露見したことで取り敢えず世間に「陳謝」し、具体的には一体誰に対して謝るべきかも判らないままにひたすら頭を下げ続ける図柄しか私には眼に浮かばないのだが・・・。
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