2017年02月02日

◆五・一五事件

渡部 亮次郎



五・一五事件(ごいちごじけんと)は1932(昭和7)年5月15日に起きた大日本帝国「海軍」急進派の青年将校を中心とする反乱事件。4年後1936年のニ・ニ六事件は陸軍の将校による叛乱事件。

武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅総理を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退した。

事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、軍人の犯人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達された。

また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。

同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強いが、本事件は暗殺テロの色彩が強い。

また犬養首相の暗殺が有名な事件であるが、首相官邸、立憲政友会(政友会)本部、警視庁とともに牧野伸顕内大臣も襲撃対象とされた。

しかし「君側の奸」の筆頭格であり、事前の計画でも犬養に続く第2の標的と見做されていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。

後に小説家松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪(いたる)らが裏で糸を引いていたのでは、と推測している(『昭和史発掘』)。

だが、中谷武世(国士)は首謀者古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したものであって、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたものの、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ている。

また中谷は大川と政党人との関係が希薄であったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している(『昭和動乱期の回想』)。

当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増している時代であった。

1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。

犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932(昭和7)年2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。

しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻礼次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。

ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。

計画の中心人物であった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになるのである。本来ならば標的でなかった犬養が殺されることになったといえる。

犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に容らない点であった。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をした。

それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。

犬養は中国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友であった。故に犬養は満州侵略に反対であり、日本は中国から手を引くべきだとの持論を兼ねてよりもっていた。

これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由なのである。

事件は昭和天皇の勅令により失敗に終わった、とするのが定説である。この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。

もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満洲国承認問題に影響を与えたという指摘もある。

なお、事件前日の5月14日には映画俳優のチャーリー・チャップリンが来日していて、チャップリンも標的となったが、直前になって犬養との会談をキャンセルしたため、難を逃れた。


チャップリンの訪日は世界旅行の一環。日本人秘書高野虎市が暗殺情報を入手、犬養首相との15日の面会を取りやめ、国技館で相撲観戦をしていたため、難を逃れた。

その後チャップリンは6月2日まで滞在。東京・日本橋で海老の天婦羅ヲ36尾も平らげたので天婦羅男の異名が付いた。生涯計4回の来日を果たした。

時の首相犬養毅が殺害された際の「話せば分かる」「問答無用、撃て!」のやり取りが有名であるが、これは犬養毅の最期の言葉と言う訳ではない。

元々、犯人の青年将校らは問答などに時間をとられては殺害に失敗する恐れがあるため、犬養を見つけ次第射殺する計画であった。

ところが実行時には、表から突入した三上隊が最初に犬養を発見したものの、犬養自らに応接室に案内され、そこで犬養の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

そこへ、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩が犬養腹部に銃撃、次いで三上が頭部に銃撃した。それでも犬養はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言う。

「話せば分かる」「問答無用」という言葉については、元海軍中尉山岸宏の次の回想がある。

「『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て。』と言ったんです」

また、元海軍中尉三上卓は裁判証言で次のように語っている。

「食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ」と申された。

私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て。』と叫んだ。

黒岩が飛び込んできて1発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかめに小さな穴があき血が流れるのを目撃した」

一方、儒学に博識でもあった犬養自身は、一般国民の教養、討議能力にはあまり信を置いていなかったともされている。

海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締規則・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。

当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。

このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われる。二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

その一方で大川周明ら民間人に対する言渡刑は非常に重かった。このことは、二・二六事件でも民間人の北一輝や西田税が死刑となったことと共通する。2008・05・14

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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