2017年02月20日

◆木津川だより 式内社岡田国神社と家康の伝承

白井 繁夫

岡田国神社(木津川市木津大谷1)は国道24号線と163号線が交差する木津大谷交差点地の朱色大鳥居の東側天神山裾に鎮座しています。

かつて慶長9年(1604)京都所司代板倉勝重より広大な境内山林を下付され、この山林は神社の造営.修繕等以外には伐採を禁じられていました。当時、この神社への参詣道としては長い松並木の参道があり、広大な境内林も有していました。

岡田国神社は地元(旧木津五郷)の産生神として昔から江戸時代まで「天神社」と呼ばれていましたが、明治時代に全国の神社の格付け見直しがあり、 明治11年(1878)延喜式神名帳(927年)に記載された岡田国神社に比定されました。

当神社の所在地を式内社岡田国神社とする説:吉田東a氏の「大日本地名辞典」山城(京都)相楽郡の「岡田」から古代は久仁と賀茂の二郷に分かれた大邑で、木津川の左右両岸に分かれた平地部を指し、岡田離宮が在りました。

(他方「山城名跡巡行志」京町鑑10から木津川市加茂町大野にある春日神社にあてる説、
式内社岡田国神社とするのが最近一般的になって来ています。)

「続日本紀」から和銅元年(708)2月、元明天皇は平城遷都の詔を発し、同年9月に初めて岡田離宮に行幸され賀茂.久仁の二里の各戸に稲30束を賜り、その後も度々訪れ孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を同伴することもありました。

聖武天皇も神亀2年(725)3月三香原(瓶原)離宮へ行幸(万葉集巻四)し、その後も度々訪れています。“聖武天皇は天平12年(740)12月恭仁京へ遷都しました。”

天神社(現岡田国神社)は社伝によれば飛鳥時代に生国魂命(いくくにたまのみこと)を祀ったことから始まると云われていますが、創建は定かではありません。奈良時代には風光明媚な岡田離宮へ元明天皇や聖武天皇は行幸され、貞観元年(859)正月、岡田鴨神社.岡田国神社は従五位下から従五位上に叙され、延長五年(927)『延喜式』の式内社に列せられています。

平安時代の天神信仰により菅原道真を合祀して天神社(天神さん)と以後云われてきました。また、天慶元年(938)には相殿に八幡宮(八幡三柱)をお祀りしたとも云われています。

奈良時代以降になると神のために仏事を修める目的で神社の境内地に神宮寺が建てられ、
木津地区の現相楽神社(八幡社の不動寺),現岡田国神社(天神宮の安楽寺)前で転読された大般若経が残されています。建久六年(1195)から正平(南北朝時代)までの書写経。

現在の神殿(相殿)の祭神:
 右殿(八幡宮):足仲彦命(たらしなかつひこのみこと 仲哀天皇)、気長足姫命(おき   ながたらしひめのみこと 神功皇后)、誉田別命(ほむたわけのみこと 応神天皇)
 左殿(天満宮): 天満天神(てんまてんじん 菅原道真)、生国魂命(いくくにたまのみこと)

室町時代に入り、応仁の乱(1467-1477)の際、南山城地区は京の東軍(細川勝元側)と西軍
(山名宗全側)の戦闘の影響を受け、畠山政長と義就両畠山家の領地が絡む家督争いも複
雑に絡み、木津も戦乱を避けられませんでした。

文明3年(1471)西軍(大内氏の軍勢)の戦火により泉橋寺の地蔵堂(日本一の石造地蔵
菩薩坐像)の建物が焼亡。(木津川左岸の木津は防御出来ました。)
文明7年(1475)5月14.15日条『大乗院寺社雑事記』南山城の合戦において西軍の攻撃に
対し東軍は各地で勝利し、木津の天神河原(現岡田国神社の前面の平地)の戦いも東軍が
勝利しており天神社(現岡田国神社)も焼亡を逃れたと思われます。

文明9年(1477)9月京から西軍畠山義就の河内入国に呼応して、10月、下狛の大北城(相
楽郡精華町)から西軍(大内軍)が南都侵攻を開始し、木津の町並みは遂に炎上し、山城よ
り弊羅坂(へらさか.奈良坂)を超へた大和の入口に在る般若寺もその時焼亡しました。
(大内軍の南都攻めの際に天神社(現岡田国神社)も焼亡したか否かは不明です。)

天神社が焼失したとはっきり文献に出たのは『多聞院日記』永禄10年(1567)6月2日条
「木津へ人数被遺之、散郷天神宮迄悉以焼払了。日中之過ニ人数被打入了」とあり、この戦
闘中、(松永久秀の兵が木津に放火しており)、その時の戦火で天神社も焼失したのです。

話題が少し外れますが、江戸時代を見ると、木津川地域の洪水被害は35回以上発生しました。特に正徳2年(1712)の大洪水は木津だけでも流失倒壊家屋700軒強、水死者100余人の被害です。(洪水被害は7年に一回の割合です。)戦火以外でも貴重な文献資料などが大量に流失したと思われます。

織豊時代の天正10年(1582)6月、明智光秀が謀反を起こした「本能寺の変」の時、徳川家康は信長と別れて堺(旅行中)にいました。信長の訃報を知り、身の危険を悟った家康は急遽本国(愛知の三河)へ帰国の途に就きました。

街道を避け人目を避けて、大和と山城の国境の相楽郷(木津川市相楽)の丘陵地まで辿り着き、上張道.下張道に見張りを立てて、兜を脱いで休息した所と云われている場所:
下記旧地名(前木津町大字相楽)が旧地図に表示されています。

(大字相楽(さがなか)の丘陵地は宅地開発により昭和61年以降相楽ニュータウンの「兜台かぶとだい」と「相楽台さがなかだい」になりました。)
旧木津町大字相楽小字 現在の地名   (近鉄京都線高の原駅の西側地区)
 兜谷  :    兜台2−7丁目付近  家康が兜を脱いで休息した所
 三葉谷 :    兜台1−3丁目付近  三つ葉葵の紋から 
 噤谷(すくもたに)相楽台2丁目付近   家康がここで竦んで噤んだ所
 上張道  :   兜台6丁目付近    上の見張り処
 下張道  :   相楽台3丁目付近   下の見張り処

岡田国神社にある伝承です。当神社(天神社)の宮司(父子)が家康主従の食糧等を手配しながら(三重県)島河原正月堂多羅尾の代官所まで案内しました。(伊賀上野は家康の配下)

その後、慶長9年(1604)に家康の命により板倉伊賀守(京都所司代)は天神社に広大な境内山林を下付したのです。

しかし、慶長19年には大坂方と徳川方の雲行きが怪しくなり、家康は大坂城攻めのため、
10月11日に駿府を出発して 23日に京の二条城に入城し、藤堂高虎は10月3日伊勢の
津城を出発して16日に木津に到着。伊予今治の藤堂高吉も19日木津へ来て合流しました。
上杉景勝は11月9日木津へ到着したが、陣は木津川下流の玉水に移しました。

(慶長5年9月:1600年の関ヶ原の戦いで、木津を含む山城地区の豊臣氏の蔵入れ地は
徳川氏の支配地となったのです。だから、大坂方への米の出荷は止められました。)

11月に入り、秀忠は伏見を出発、家康は13日に二条城を出発決定、板倉は家臣(木村宗右衛門)に対して木津川に船橋の架設を過書船(20石船)で13日までに完了を命じた。
(次回に続く)

参考資料: 木津町史 本文篇、  史料篇 1  木津町。
      加茂町史 第一巻  古代.中世篇  加茂町  
      木津町埋蔵文化財調査報告書 第3集、岡田国遺跡現地説明会資料、
      相楽の民俗 (京都民俗談話会 南山城調査会)

                                  
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