2017年02月21日

◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎



1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京
を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとって
は、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機
に乗るのは平気である。故迫水久恒経済企画庁長官は、当時の池田勇人首
相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで下を向
いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠
らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話
ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石
灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人
とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、
洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に
招いたソビエト技術者が自分たちの感覚で設計したものだった。

中国との国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとって
のプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったこ
とも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ
初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部
屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年以上。いま
だに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では
「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国
の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。
ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差
し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取りようにしてポケットにしまっ
た。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからで
ある。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれ
て入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙に書
いていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる
事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害につい
て「迷惑をかけた」と言った。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって
謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったこ
となどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいい。だ
からインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過
ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。
朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。

慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走って
いない時代。怪しげなフランス語で交渉したら共産党の指示でガタガタの
車が迎えに来た。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとした
ら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してで
てきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2m
まで近づける「近距離記者」は私しかいないのだからあわておってきたわ
けさ。


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック