2017年02月25日

◆木津と応仁の乱 続編

白井 繁夫



木津と応仁の乱をしばらく休ませて貰い間延びしてしまいました。少し遡りますが、前回の概要を兼ね、再度箇条書きします。

長禄.寛正の飢饉(ちょうろく.かんしょうのききん:1459−1461年)中世最大の災害が起こり世は乱れ、京になだれ込んだ流民らから多くの餓死者も発生し、各地には土一揆も起こりましたが、8代将軍足利義政(よしまさ)は政に余り関心を寄せないため、将軍家の権威は弱まって来ました。

三管領家随一の名門畠山家においても、畠山持国には嫡子がいないため、家督をめぐり、庶子の畠山義就(よしなり)と甥:弟の子:政長(まさなが)との間で激烈な抗争が繰り返されるようになり、内紛に乗じ、畠山家の勢力を少しでも弱めようとして細川勝元(かつもと)は政長側に付きました。

京に密接する南山城や大和地方等においても、守護大名家(管領家)の被官らもおのずから抗争に組み込まれて行きました。


大和では嘉吉の乱後、復帰した畠山持国の支援を受けて、古市.豊田氏が官符衆徒となるが、長禄3年(1459)5月、筒井順永、成身院光宣は勝元の助言を得て将軍義政により赦免されました。更に、順永は勝元の援軍も得て、大和に入国し、官符衆徒の棟梁に復帰しました。


畠山弥三郎の死後、弟の政長を勝元は擁立したが、他方の義就は寛正元年(1460)に出仕が停止され、畠山政長に対し将軍義政は家督を安堵しました。畠山義就は遂に朝敵として追討されて、河内嶽山(大阪富田林市)に籠城する事になりました。

義就はその後4年間もの長期籠城戦に耐えましたが、寛正4年4月落城し、紀州から吉野へと逃れました。越智.古市勢も山城から引き揚げ、勝元側の狛下司を含む山城十六人衆は帰還出来しました。

嘉吉の乱後、赤松家の所領を得て、勢力を拡大して来た山名持豊(宗全)は義就の嶽山合戦の奮戦を聞きいたく感動して、義就を味方に引入れ、細川勝元に対抗することとなりました。
(赤松家の当主則尚:のりひさは享徳3年、義政より赦免され細川勝元の傘下に入る。)

将軍義政は寛正5年(1464)弟を還俗させて、将軍後継者「足利義視:よしみ」としましたが、夫人の日野富子が翌年男子義尚(よしひさ)を出産しました。富子は我が子を将軍にと思い四職家の実力者山名宗全を頼り、将軍後継者問題も分裂を招く原因になりました。

文正元年(1466)12月25日管領畠山政長と家督争いをしている義就が河内国から兵を伴い、上洛して千本釈迦堂に宿りました。山名宗全の助力により義就の罪が解かれました。
翌年正月二日に出仕して将軍義政に対面出来ました。長禄4年(1460)家督を廃されて以来です。この時、義就は河内を含む三ヵ国の守護職(しゅごしき)を安堵されたのです。

文正元年末の宗全の対勝元側への仕掛けより、翌正月の諸策が大乱の導火線へ繋がります。

文正二年(応仁元年:1467)の年明けは、山名宗全と細川勝元との対立抗争を生む暗雲の状況になりました。正月二日の椀飯(おおばん)の儀:将軍が管領邸を訪問する武家の慣例行事:の重要行事なのに、管領政長邸への将軍の御成(おなり)は突如中止されました。

他方、畠山義就は山名宗全邸を借り正月五日に将軍を招き大宴会をしますが、政長は同六日に屋敷の引渡しを命じられました。その上、八日に政長は管領職も解かれ、山名宗全側の斯波義廉(しばよしかど)が管領に補任(ぶにん)されました。(両畠山の勢力の逆転です。)


三管領家の斯波義健(よしたけ)に嫡子がなく、家督をめぐり義敏(よしとし:細川側)と義廉(山名側)との分裂抗争も起きていました。山名宗全は富子に足利義尚の後援依頼を受けており、富子(義尚)を絡め?勝元の勢力を剥ぐため、宗全.義就がクーデター計画を企てたか。

細川勝元は京極持清(もちきよ).赤松政則(まさのり)等と畠山政長を援護しようとするが、将軍家に止められ、政長が17日に上御霊神社に陣を張っても、援軍を出せなかった。
翌日早朝からの畠山両家の戦いは終日の私合戦となり、畠山政長が京を退くこととなった。
(この御霊林の合戦こそ、以後11年にわたる応仁の乱の始まりと言われています。

将軍義政は弟の義視を後継にと強引に引き出したが、実子義尚が誕生し妻富子に泣かれると継嗣問題は宙に浮いた状態となった。山名宗全は前年末来の企画がうまく行き、勝元の勢力を弱めたと思い、宗全邸では連日のように宴会や催事が開かれました。


3月3日の節句祝賀には山名宗全.斯波義廉.畠山義就等山名側諸大名が幕府へ出仕しまし
たが、細川勝元側はだれ一人として顔を見せませんでした。この異常な状態を境に、宗全と勝元と双方の対立.緊張が一気に加速しました。

文正2年は正月から、管領家の争いがあり、また近年はずっと飢饉や、疫病の蔓延、農民の台頭による土一揆などがつづき、3月5日には年号を文正から応仁に改元しました。


5月に入ると両勢力の緊張がさらに高まり、細川方.山名方の双方がともに同20日には
軍勢の招集をしました。東軍の細川勝元方は細川一族(讃岐.和泉.備中等の守護)、近江
半国の守護京極持清、赤松家当主赤松政則、若狭守護武田信賢、管領家の斯波義敏と畠山政長など。大和では筒井一族が味方し、山城では木津氏.田辺氏.狛下司を含む山城十六人衆。


両軍は堀川を挟み東側に勝元邸(東軍の本陣)、西側に宗全邸(西軍の本陣)があり、この屋形の所在地から東軍.西軍と称したのです。山名宗全方(西軍)は山名一族(伯耆.因幡.備後等の守護)、美濃守護土岐成頼、近江半国守護六角高頼、管領家の斯波義廉、畠山義就ら11大名20ヶ国勢が京に集まり、少し遅れ周防等の守護大内政弘が加わりました。大和では越智氏、古市氏など。山城では椿井氏、斯波氏の被官中黒氏など。

当時の京の人口は約20万人と言われていましたが、東軍(細川方)の兵合計約16万1千5百、西軍(山名方)の兵約11万6千と、京の人口より多くの兵が京都に集められました。

応仁元年(1467)5月26日早朝、東軍から西軍守護の各陣地へ攻撃が開始され、洛中の民家も寺社も、27日、28日と続く激しい戦火の炎に包まれてしまいました。両軍の全面戦争に将軍義政は停戦を命じますが、誰も聞く耳を持ちません。


西軍には管領斯波義廉がおり、日野富子は山名派(西軍)です。細川勝元は前回宗全のクーデターにしてやられたが、今回は将軍義政の取り込みに成功しており、6月、義政は妻の富子の反対を退けて将軍の牙旗(がき:将軍の居場所に立てる旗)を勝元に授けました。

このことは東軍が将軍派であり、西軍は反乱軍となり、両軍の性格がはっきりと形式上区別されました。即ち、西軍の諸将は管領や守護などの将軍任命の地位や身分を失うのです。
初期に戦闘準備が出来ていた東軍は、将軍派となって、更に力を得て、6月.7月とやや優勢に戦闘を進めることが出来ました。

この間に、各地から武将が次々と到着してきましたが、その中で西国最大の雄大内政弘(周防.長門.豊前.筑前の守護)が伊予の兵や瀬戸内の海賊衆も加えて約2万の大軍で8月に上洛して西軍に加わりました。

大内氏は細川氏.山名氏より格は下ですが、一大派閥を形成している守護大名です。大内氏の参戦により、中部日本から北九州地域までの諸国の軍勢が京都に集結して東西両軍のどちらかに分かれて、戦うことになったのです。

応仁の乱は緒戦において細川方が優勢でしたが、大内軍が参戦して西軍は勢いづき、9月の
東岩倉山の合戦、10月3日.4日の大激戦となる相国寺の合戦などで西軍が優勢となる。
初年の戦いで、洛中の大半が焼失し相国寺.南禅寺も焼失して花の御所も被害を受けたのです。

東軍は幕府を中心とした一角に追い込まれて、戦況はそのまま膠着状態となりました。
洛中の兵、両軍合わせると30万弱になりますが、この数の大多数が足軽兵です。しかし、この足軽たちが、前々回の序文でも触れましたが、放火し、掠奪するから洛中は乱れ、治安が悪化し、応仁の乱の初年から祇園祭りなどが中止となりました。 

◆参考資料: 木津町史  本文篇  木津町、  山城町史  本文編  山城町
      京都の歴史  2   中世の展開  熱田 公 著



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