2017年02月27日

◆木津と応仁の乱 続編 B

白井 繁夫


応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの11年間と言われていますが、
最も激しい合戦は初期の2年間です。この間、洛中では東軍(細川勢)と西軍(山名勢)の戦闘に巻き込まれた数多の神社.仏閣は焼亡し、その上、戦乱に紛れて足軽集団が公家屋敷や町家にまで放火し、掠奪するため、京は治安が大変乱れた焼け野原の都と化しました。

その後の洛中では、両軍ともにゲリラ戦などの小規模な衝突程度の戦いとなり、戦乱はむしろ地方の地域へと拡大していきました。

応仁3年4月には、改元して文明元年となりました。しかし、東軍(細川方)は将軍.嫡子義尚と天皇も取り込んでおり、「官軍」と称していますが、西軍(山名方)は将軍の弟(義視)を引入れただけです。

だから山名宗全は南朝の後胤.小倉の宮(南朝最後の後亀山天皇の孫)の御子を西軍の総師として迎えようと思うのです。そこで大和高市郡の越智邸から、文明3年(1471)7月に京の安山院(尼寺)へ御子を迎え入れたのです。

ところが、西軍の有力武将畠山義就の領国(河内.紀州)と南朝の勢力地とが重なるため、義就の強い反対にあい、その後御子を上手く利用も出来ず、宗全は後南朝勢の小倉宮皇子として西軍の西陣南帝としたが、御子の存在そのものも不明になってしまいました。

応仁2年以降、洛外に拡大しはじめた戦乱は、当時の日本における2大都市「京都と奈良」を結ぶ重要な地域「山城国」の争奪戦の渦に、木津川地域を巻き込んで行くのです。大和では長年筒井.十市氏等と古市.越智氏等の両派が争ってきましたが応仁の乱でもそれぞれが東軍細川方の畠山政長と西軍山名氏の畠山義就方に属していました。

「山城国の十六人衆」は応仁の乱開戦以来、細川勝元の被官として合戦に動員されており、出陣の際には兵糧米に宛てるため自身の支配地以外の興福寺や石清水八幡などの荘園も押領していたのです。

他方、洛外に拡大し山城乙訓郡.摂津.河内に勢力を強めていた畠山義就.大内政弘の西軍の大内軍が文明2年(1470)7月南山城に進出してきました。

大軍で押し寄せた大内軍は先ず東軍の宇治大路氏を7月22日に降参させ、山城国十六人衆の内12人も瞬く間に降参させました。残ったのは木津.田辺.狛.井出別所氏の4氏でした。この間、西軍方の椿井氏までが古市胤栄を頼り大和国へ没落(避難)しました。

7月25日、大内氏の大軍は杉備中守.弘中上総守を両大将にして田辺郷(京田辺市)を強襲し、田辺郷の武士(荘官:下司.公文の2人:田辺氏.武藤氏)は支えきれず自ら城を焼き没落したと云われています。

田辺郷の合戦には狛下司.木津氏も参戦するが、戦いに敗れた狛氏は隠居して子息を降人に出して解決しました。木津氏も同じく子息に家督を譲り降人に出したのです。田辺郷の寺や民家はほとんど焼亡してしまうが、ただ天神宮(棚倉孫神社)だけが焼け残ったと云われています。

今まで南山城は東軍が優勢でしたが、大内軍の進攻で大部分が大内氏の支配下になり、平野部ではわずかに木津だけが東軍の手に残る状況となりました。東軍は西軍に対抗するため、8月末、伊賀国守護仁木氏が伊勢国の関.長野氏の軍勢を率いて木津に進出してきました。

9月には筒井派の狭川氏が東軍(仁木氏)の支援に入り、大和の古市勢は大内軍に加わって
合戦が起きましたが、東軍が木津へ引き上げて、大内.古市両氏により守備された下狛の城は以後、戦乱がおさまる文明9年11月まで西軍が支えていたのです。

文明3年(1471)4月、大内軍と畠山義就軍は木津の占領を目指し、古市氏とも連絡を取って、木津川の対岸(北側)の上狛、下流(西側)の吐師.相楽等に火を放ち木津の小寺口まで押し寄せたが、本隊は木津川を中に挟んだ対陣状態で、結果的に、木津の町は焼けずに済みました。

この時、西軍(大内軍)の軍勢数はあまり多くなく、翌日木津の東軍からの反撃で合戦は鎮静化しました。しかし、この戦闘中の火災で、数多の寺院や民家が焼亡し、特に奈良時代の行基が開祖と云われる泉橋寺(木津川市山城町)の門前に建つ地蔵堂も炎上しました。

この地蔵堂には徳治3年(1308)9月9日般若寺(奈良市)の真円上人が造立供養した日本一大きい石造地蔵菩薩坐像(高さ5.88m)が祀られていたのです。被災した地蔵堂跡の地蔵尊は元禄年間(1688-1703)損傷部を修復して露佛となった状態のまま祀られています。

また、文明3年(1471)には、将軍義政から越前守護職の補任を得た「朝倉孝景」は斯波義廉の有力家臣でしたが、東軍に寝返り、5月に京の戦乱地から領地を治めるため、越前へ復帰してきたのです。

越前では(西軍)斯波義廉や重臣の越前守護代甲斐敏光と合戦になりましたが、越前の国人達(斯波義敏側)の支援を得た朝倉孝景軍が実力で越前一国を掌中に収めてしまいました。

文明4年(1472)に入ると、南山城の両軍の合戦は下狛大北城の攻防後、東軍が退きしばらくは平静になりました。京においては、開戦以来6年ともなると、兵士たちもさすがに少々厭戦的になって来たのです。

ところが、国元では反乱や、隣国からの侵略、農民の一揆などと気がかりなことが発生しており誰のための戦いか各守護や被官たちも動揺を感じるようになりました。

そんな状況の折、西軍の山名宗全から東軍の細川勝元に講和の提案がありましたが、細川方の武将赤松政則が頑なに反対したのです。(赤松氏は嘉吉の乱後、山名宗全に奪われた領地(播磨など)の奪回のため、東軍に参加して、宗全打倒を目指して戦ってきたのです。)

超有力管領畠山家の義就と政長が西軍と東軍の武将に分かれて領地をめぐる激烈な家督争いを続けてきており、やはり講和には断固反対でした。

しかし、文明5年には誰も予期出来なかった事態が発生するのです。(つづく)

参考資料: 木津町史  本文篇  木津町、 山城町史  本文編  山城町
      京都の歴史  2  中世の展開  熱田 公 著
      乱世京都  上  明田 鉄男 著
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