2017年04月07日

◆名所旧跡めぐり 那須国造碑(栃木県大田原市)

石田 岳彦

 

さて、以前にもお話しましたが、日本人は「三大○○」というのが好きでして、「日本三景」、「日本三大がっかり名所」のようなメジャーなものから、「石の宝殿」の回で取り上げた「日本三奇」のようなマイナーなものまで、枚挙に暇がありません。

今回は、その中でもかなりマイナーかつマニアックな「日本三碑」の1つ那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)のお話をさせていただきます。
 
なお、今回の話は、私が司法修習を終えるころという、今から十年以上前の話であり、現状とはかなり異なっているところもあろうかと思いますので、現地に向かわれる際にはくれぐれも最新の情報をご確認ください。

日本三碑というのは、日本に古代から残る3つの代表的な石碑のことで、一般的には、宮城県多賀城跡の多賀城碑(重要文化財)、群馬県高崎市の多胡碑(特別史跡)、そして栃木県大田原市の那須国造碑(国宝)を指します。

ちなみに考古学や歴史学ではなく、書道史上の概念だそうです。書道的に見て、素晴らしい字ということなのでしょうか。

なお、どうでもよいことですが、多賀城碑は重要文化財、那須国造碑は国宝という「物」扱いなのに、多胡碑だけ特別史跡という「場所」扱いなのは何故でしょうか。石碑が突っ立っていて、その周囲が覆い屋で覆われているという構造まで一緒なわけですが。

司法試験に合格した後の司法修習の期間が1年間になった今では考え難いことですが、修習期間が2年間だった我々52期修習生までは、二回試験(司法修習の最後、法律家としての資格を得るために受ける最終試験のことです。)の後、結果発表までの間、2週間近い「春休み」が存在し、その間を利用して長期の海外旅行に行く修習生も少なくありませんでした。

金の無い私は、大阪に就職が決まっていたこともあり、「司法研修所を宿代わりに関東地方の各地を安く見て廻る最後のチャンス」と考え、この期間を利用し、関東の方々を廻ることにしました。

その目的地の1つが那須国造碑でした。
 
那須塩原駅で東北新幹線を降り(同駅にとまる列車自体が結構少なかったと記憶しています。)、バス停に行ったところ、次のバスは2時間後。泣く泣くタクシーに乗り込み(5000円以上かかりました。)、那須国造碑のある笠石神社へ。

那須国造碑は笠石神社のご神体なのです。

笠石神社では、那須国造碑を予約制で公開しており、当然、私も予約したうえで赴いたわけですが、私は不安を感じていました。

というのも、ご神体というものは基本的に非公開であり(山がご神体といった場合はまた話が別ですが、ご神像、剣、鏡等のような、本殿の中に収まるようなサイズのものの場合には、非公開がほとんどのようです。)、ご神体が国宝に指定されているからといって、それを見せて欲しいという見学希望者の存在は、神社側にとって、実のところ迷惑なのではないだろうか、招かれざる客ではなかろうかと、小心者の私は、考えても仕方のないことをあれこれと考えてしまうのです。

それでも「あちらにとって迷惑でも、やはり見たいものを見せてくれるなら見たい」という結論になるのが、文化財マニアの業というものでしょうか。

タクシーを降り、社務所に向かいました。笠石神社は、道路に沿った畑の中、そこだけ林になった狭い境内の中に、いかにも「村の鎮守の神様」という雰囲気で鎮座されていました。
社務所の前には、何故かパイプ椅子が2列ほど並べられており、簡易な屋根までついています。

出てこられた神主さんから渡されたのは那須国造碑と笠石神社に関する詳細な資料一式。もしかして「見学者大歓迎」ですか。早速、神主さんからのレクチャーが始まります。参拝客は私だけです。

神主さんのお話によると、那須国造碑は西暦700年ころ、那須の国造(大和朝廷の支配下に入った地方豪族に与えられた称号)で那須郡の高位の役人になった人物を、その亡き後、息子らが顕彰するために建てた石碑だったそうです。石碑の上に笠状の石が乗せられており、そのため「笠石」さまと呼ばれたとのこと。

もっとも、土台となった石が小さく、バランスが悪かったためか、建立されて、それほど経たないうちに倒れてしまいましたが、その際、碑面が下になったため、碑文が保存されたそうです。

その後、何故か「祟り石」という評判が立ってしまい、数百年間にわたり、放置されていたところ、江戸時代になって円順という旅の僧侶(物好きだったのでしょう)が笠石様を調べて碑文の存在に気付き、それを在郷の学者(郷土史家の走りというものでしょうか。)が本にしました。

そこに現れたのが、徳川光圀公、いわゆる水戸黄門様ですね。自ら大日本史という大歴史書の編纂作業に着手するほどの歴史好きだった黄門様は、笠石様について書かれた書物を献上され(言い忘れましたが、那須国造碑の所在地は水戸藩領でした。)、那須国造碑に強い興味を持ちます。

早速、水戸藩の学者に碑文の解読を命じるとともに、倒れていた碑を建て直し(土台の石をより大きなものにし、元の土台石をその中に収めたそうです。)、これをご神体とした笠石神社を建立しました。

神社のご神体という形をとったのは、「文化財の保護」という概念のない当時において、那須国造碑を永続的に保管するという目的を達成するためには、それが一番簡便であったということでしょう。都合のよいことに、笠石様として既に一定の宗教的権威をもっていましたし。

また、このような笠石神社の由来を知れば、同神社が、ご神体であるはずの那須国造碑の公開に積極的なのも理解できます。

この神社は単なる神社ではなく、貴重な歴史的遺産の保存、研究者への公開をも使命とする文化的施設でもあったわけですから。

そして、黄門様は笠石神社の創建にとどまらず、近くにあった古墳を那須国造碑に顕彰された国造とその息子(建立者)のものではないかと考え、古墳を発掘させ、発掘品をその姿を絵画として記録したうえで、箱に入れて埋め戻させ、更に樹木を植えて古墳が崩れないように指示を出したそうです。

感動しました。江戸時代初期の人間が、文化財・遺跡の保護、遺跡の学術的発掘といった現在に通じる考えを既に持っていたということですね。
何と先進的な。さすがに黄門様です。全国を漫遊しているのがテレビ時代劇の作り話に過ぎないとしても、やはり偉大な人物でした。

感動を胸に抱きながら、神主さんに連れられて本殿へ。耐火性の、祠というよりも大き目の金庫という印象の本殿の扉を開くと、中に笠石様が鎮座していらっしゃいました。

碑面は説明で聞いたとおり、保存状態が良く、文字もはっきりと残っています。綺麗な整った形の字という印象です。

書道に詳しい人ならば、もう少し気の利いた表現で、「那須国造碑の味わい方」を説明することが可能なのでしょうが、当時の(おそらく現在も)私としては、この程度の感想がせいぜいでした。高校の書道の時間にもう少し真面目に授業を受けておくべきだったでしょうか。

とはいえ、1300年も昔の石碑がほぼ完全に近い形で現在に残っており、今、自分の前に立っているという事実はそれ自体、感慨を抱かせるものです。

この石碑を巡る黄門様の逸話を聞いた後となれば、尚更のこと。私と同じように、かつて黄門様もこの石碑に向かい、その碑文を一文字、一文字眺めたことでしょう。

(おそらく今も)公共交通機関が不便なので、自動車免許のある方ならば、駅からはレンタカーの利用が望ましいと思います。付近(というにはかなり離れていますが)には、九尾の狐伝説で有名な殺生石もありますので、時間があれば、そちらも御覧になられてください。

                     (弁護士)
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