2017年05月13日

◆韓国、最悪のシナリオに急傾斜?

宮崎 正弘
 


<平成29年(2017)5月12日(金曜日)通算第5289号>  

  〜韓国、最悪のシナリオに急傾斜しつつあるのではないのか
   米朝交渉、非公開で開始。米国はロシアに仲介を求めた形跡あり〜

韓国に親北大統領が誕生したことにより、北朝鮮は熟柿が落ちるのを待て
ば良いと考えているようだ。

韓国の未来は「最悪のシナリオ」に急傾斜しつつあるのではないか。

「一国家、一言語、両制度」という南北朝鮮の統一構想はもともと金日成
が言い出した二段階革命論に則っており、韓国は戦後冷戦期の「反共」の
国是を既に捨て去り、北が呼びかける「民族主義」のもと、反米に急傾斜
している。

なにしろ在韓米軍はもはや邪魔であり、THAAD配備で中国を怒らせた
のは、米国が悪いからだという北朝鮮の洗脳、情宣工作に引っかかって、
従北派の大統領を選んでしまった。

いまは「皆の大統領になる」などと、ありきたりのことしか発言していな
いが、統一へ向けて文政権は暴走を始めるだろう。

しかもやっかいなことに米国は韓国を見限りつつあり、空母を派遣してい
るのは非公開交渉をにらんでの武力威嚇戦術と北朝鮮は捉えている。
 
盧武鉉の亡霊が復活した韓国は、まず中国へのご機嫌取りをはじめ、米国
とは相当投げやりな外交関係に移行するだろう。

日本にとっては極左の反日、反米、親中、従北政権がとなりに誕生したわ
けで、未曾有の軍事的危機にいずれ直面することになる。

米国は日本の安全保障より自国に届かないミサイル開発を凍結させれば、
そのまま北と妥協する可能性が日々濃くなってきたように見える。

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 ◆ 樋泉克夫のコラム  
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【知道中国 1569回】     
――「正邪の標準なくして、利害の打算あり」――(徳富8)
 徳富猪一郎『七十八日遊記』(民友社 明治39年)

                ▽
徳富は「国民捐」を「先つ以て殊勝と可申歟」と好意的に捉える一方で、
「排外熱」を「一面清國人の側より見れば、斯る運動に出つるも、決して
理由なきにあらさる可し。但た之を達し得るの實力を養はすして、實力を
有せすして、直ちに其の目的を達せんとするは、大早計にあらさるなき
乎」と疑問を呈した。そう急いでは、できることもできないではないか。
急いては事を仕損じるというもの。それも「實力を有せすして」では、で
ある。

次いで軽挙妄動気味の社会の指導者を「清國の高襟先生達」と皮肉りな
がら、「予は清國の高襟先生達か、餘りに天下の事を、輕易に考へ居るこ
とを遺憾とするものに候。彼等は世の中の事は、理屈の一天張りにて、立
て通すと申す事を知りて、之を達するには、其の順序、方法、實力、熟練
を要することに氣附かさるか如し」と批判し、「過日面會の折に、サー、
ロバート、ハート氏は、如何に支那か急遽に恢復せんとするも、當分は、
其の境遇、現状を維持するの外、致し方なかる可しと申し居り候」と。当
面は現状維持が最善策か。

ここに登場した「サー、ロバート、ハート氏」は1835年にアイルランドで
生まれた初代准男爵。1854年に渡った香港で中国語を学び、広州で連合軍
軍政庁書記官(1858年)、広東海関副税務司(1859年)を経て1863年に総
税務司に就任し、清国関税業務を司った。1900年の義和団の乱に際しては
外交交渉に動いている。1908年に清朝皇帝から賜暇を許され帰国し、総政
務司在職のまま1911年に死去。前後40年ほどに亘って関税業務の元締めと
して、危機的状況を続けるばかりの清国財政に多大な影響を与えた。ここ
にも支那通がいた。やはり支那通は日本だけの専売特許ではないことを牢
記しておきたい。

どうやら「ドクトル、モリソン氏」と「サー、ロバート、ハート氏」の両
人の見解は、「順序、方法、實力、熟練」を欠いたままの「排外熱」は清
国にとっては百害あって一利なし。当分は現状維持の外に良策なし――この
考えで共通していたようだ。

この考えに同意する徳富は、さらに一歩を進めて「此の利權恢復運動か、
何處迄に底止す可き乎。此れか若し下流社會の排外運動を、合體する場合
には如何なる情態を來たす可き乎。果してさる心配は、杞憂なる乎。吾人
は杞憂たらんことを祈る者に候」と、運動の将来に思いを馳せた。

「此の利權恢復運動」が「清國の高襟先生達」の自己満足、あるいは高踏
なる政治遊戯に終始しているうちはまだしも、これが「下流社會の排外運
動と、合體する場合には如何なる情態を來たす可」とは、確かに卓見、い
や不気味なる予言だ。時の流れを辿ってみれば、たしかに「此の利權恢復
運動」は徐々ながら「下流社會の排外運動と、合體」し、やがては辛亥革
命、孫文による国民党結党、北伐、共産党結党、国共合作等を経て毛沢東
による1949年の共産党政権成立に繋がったように思える。

徳富が毛沢東のような指導者の出現まで見通していたとは思えないが、
「其の順序、方法、實力、熟練」を欠いた「清國の高襟先生達」の運動で
はなく、逸早く「下流社會の排外運動」に着目した徳富の眼力には、やは
り注目しておきたい。

徳富は、北京の姿が良くも悪くも清国の現状を象徴していると見做す。
「要するに清國は、目下、過渡の期にあり。其の靜的情態にあらすして、
動的情態にあることは、斷々乎として、疑ふべからす」。全土を挙げて
「國民的統一をなし、國民的精神の發揮と與に、文明諸國共通の生活思想
に加入し。茲に一大強國となるを得可き乎、否乎」と問い、「そは多くの
疑問中にて、最も大なる疑問ならむ。之を解釋するの責任は、固より清國
人士の上に在る也」と結んでいる。

社会の動きを追った徳富の考察の目は、転じて「荒廢せる古蹟」に向った。
《QED》
    
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