2017年05月28日

◆木津川だより 和伎神社(涌出宮)A

白井 繁夫



涌出宮わきでのみや:正式名称は和伎座天乃夫岐賣神社わきにますあめのふきめ:は木津川の右岸(木津川市山城町平尾)にあり、前回は『記.紀』の崇神天皇の武埴安彦の反逆物語から神社名(語源)や奇祭の由来について少し触れました。

今回は涌出宮遺跡から出土した弥生時代中期の豊富な遺物や集落遺跡、当神社の南方1km余の所にある椿井大塚山古墳(三角縁神獣鏡が30数枚出土)等が存在する当地域で、弥生から古墳時代にまたがる大和朝廷確立に関連した戦の物語、木津川流域で争われた反乱、『神功皇后(日本書紀).仲哀天皇(古事記)の忍熊王の反乱』の概要を、追加記述します。

『記』息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと:神功皇后『紀』息長足姫尊:以後皇后と略称)が新羅を討伐されて、海路にて倭(大和)への帰途、筑紫国で仲哀天皇のご遺体を収めて、一艘の喪船を用意し、御子(後の応神天皇)を乗船させました。

皇后は御子の異母兄(香坂王かぐさかのみこ.忍熊王おしくまのみこ)を欺くため、御子の崩御説を流しました。他方の香坂王.忍熊王は共に播磨(兵庫県)に兵を集めて天皇の山稜を赤石(明石)に造営すると称していたのです。

香坂王.忍熊王は難波の菟餓野(とがの:現大阪市北区兎我野町付近)に出て、祈狩(うけひがり:誓約狩:狩の獲物で吉凶の神意を伺う)を催行した折、香坂王が怒り狂った猪に食い殺されました。弟の忍熊王は誓約の結果を無視して、皇后軍との戦闘態勢を整えました。

然し、天皇と御子も死亡した噂を信じた忍熊王は皇后軍が乗船していた喪船をやり過ごしました。太子の軍は喪船から上陸して、丸邇臣(わにのおみ)の祖先、難波根子建振熊命(たけふるくまのみこと)を将軍とする皇后軍から攻撃を仕掛け、吉師部(きしべ)の祖先、伊佐比宿禰(いさひのすくね)を将軍とした敵軍を追撃して、淀川から木津川へと追い詰め山城まで来ました。

山城で軍勢を立て直した忍熊王は反撃に出ましたが、菟道(うじ.宇治)でまたも、(皇后が崩御されたので、弓の弦を折り降伏すると云う)建振熊命の知略に騙されて、敵軍も弦を折り停戦しました。太子軍は隠し持った弓矢で再度追撃を開始し、敵軍は逢坂から近江まで追われ、ついに忍熊王は近江の海(琵琶湖)に入水し崩御されました。(古事記と日本書紀ではストーリーに若干差異があります。)

大和盆地の東南部の纒向(まきむく)古墳群(桜井市)や大和古墳群(天理市)にはヤマト政権誕生に関わった3世紀から4世紀末頃の王族の古墳群があります。東北部へ移動後の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(奈良市)には4世紀末から5世紀中葉まで多数の大王墓(全長200m超)が築造され、この古墳群の被葬者から4世紀末にはヤマト政権の最高首長が推戴されました。

その後、政権は大和から河内へ移動し、古墳も5世紀初頭には400mを超える応神天皇陵(羽曳野市)から世界最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵:堺市堺区)へと大規模古墳が出現したのです。

木津川右岸に在る椿井大塚山古墳は纒向古墳群の箸墓古墳(築造3世紀中:魏志倭人伝の卑弥呼の墓か)に類似し、3世紀末に築造、約2/3の大きさの前方後円墳で出土品は竪穴式石室内から三角縁神獣鏡など36面余、武器.武具、工具.農具、日本最古の刀子等々が出土しました。

大和政権確立を目指し、大和平野の東北部(奈良市)へ移動して、全国展開に利便な水陸交通の要衝(泉津)と木津川流域を勢力範囲に組み込んで行く過程で起きた戦いが前述の『記.紀』2話の物語と思われます。政権が河内国へ移動後は全国的にみても大古墳の築造は無くなりました。

涌出宮遺跡は「前回記述の社伝の神域」伊勢より勧請した女神を併祀した時、一夜で涌き出た森:4町8反余.約4.8万平方メートルの森が出現:の神域近辺を昭和43年(1968)の保育園建設計画や平成元年(1989)の涌出宮遺跡の範囲確認に基づく発掘調査が其々実施されました。

(涌出宮は縄文時代前期の土器が出土した涌出宮遺跡地に社があり、古来の奈良街道と伊賀街道が交差する地点でもあり、現在も境内に伊賀街道の道標が残っています。)

涌出宮遺跡の昭和43年の1次から平成元年の2次にわたる発掘調査による出土品等の遺物より、
涌出宮地域は縄文.弥生.古墳時代から、平安.鎌倉、江戸時代を経た現在まで連綿として人々の生活が営まれ、宮の祭りも繰り返された場所だと、推測できる遺物が発掘されました。

第1次(1968年)の調査地は参道の東側の水田地帯(現保育園の建設地域)
第2次(1989年)の発掘調査地区は社殿の建築に合わせてAからD区の4か所を発掘調査
(A区は現境内の東方外側、BからD区は涌出宮の境内地域)
 A区:湧出宮境内の東方の水田、B区:拝殿の西南.四脚門の西北側の現手水社付近。
 C区:A区とB区の中間.戦没者慰霊碑の前面地、D区:拝殿の東側.現社殿(神楽殿.社務所)の建設地域。 

当遺跡の第1次発掘調査の出土遺物:縄文時代前期の土器が出土、弥生時代の畿内土器様式の第U様式から第W様式の土器、石器類は石匕.石鏃.叩石から磨製石剣.石鏃.石包丁等、更に鉄剣形石剣も出土しました。土器は弥生中期の水稲農耕の定着に伴い生産力.経済力が増強し、地域間交流の発達などがあり、第V様式の土器が特に多種.大量に出土しました。

土器の組成も壺.甕.鉢の単純な組み合わせから各種の用途別に壺.甕.鉢.高杯等々が複雑化した組み合わせや形も色々に変化して社会的ニーズ(穀物の貯蔵.煮炊き.祭祀用等々)や人々の嗜好に合わせて発展した土器の文様(櫛書き直線文.波状文.簾状文等々)が出土しました。

当遺跡は縄文時代前期から継続的に営まれた集落跡であり弥生時代中期には特に発展したと思われました。また、弥生末の第X様式の土器や古墳時代の遺物も少し出土しております。その後、遺跡地の範囲を確認するため、さらに調査地を広げ、第2次の発掘調査を行ったのです。

第2次発掘調査地:(A区):境内外の東方の水田: 東西に2m幅のトレンチ、弥生時代の磨製石剣が出土、杭穴38ヶ検出、竪穴式住居の柱穴に弥生土器片混入等々

(B区):楼門脇西側:東西4mx南北6mのトレンチ、遺物包含層の上部から中.近世と弥生時代に分層、弥生土器(壺.甕.鉢.高杯.器台.ミニチュア壺)、弥生時代の集落跡など
(C区):戦没者慰霊碑前:東西4mx南北6mのトレンチ、表土は近.現代の瓦礫が多量、表土下は弥生時代から古墳時代の遺物包含層、C区の遺構は近世の壺埋設遺構と弥生の土壙。

(D区):拝殿の東側、社務所などの建設地:東西約10mx南北約20mの範囲の調査区:遺構は弥生時代から近世までが混在、弥生時代の竪穴式住居跡3基と多数の土壙、B区の南北遺構の東側にも同様の南北遺構が出現し、弥生の住居群の存在が確認できたのです。又南北に走る土塀跡もあり、現神社が平安時代末にその輪郭が出来ていた事が分かる貴重な遺構の発掘でした。さらに、平安時代末(12世紀)から近世までの多数の土器溜り群から当神社の祭祀に関連する土器が多数出土したのです。

当遺跡の第2次発掘調査で出土した遺物はコンテナバケットに換算すると約100箱分になり、
その内の約30箱は弥生土器です。残りは平安時代から中.近世にわたる土器や瓦類などでした。

平安時代から中.近世の土器類には涌出宮の祭祀関連を示唆する貴重な遺物があり、出土した多
数の瓦類から涌出宮に付属していた神宮寺の軒丸瓦や平瓦などの瓦類も出土しました。

涌出宮遺跡は出土した土器や石器が各時代にまたがり人々の営みの変化.発展の様子を示す遺
物を出土するまさに複合遺跡です。土器も文様から時代が分かり、甕形土器も近江系土器、「大和
形」甕、瀬戸内系甕など文化の交流や物流など、また品種も多様化し、高杯やミニチュア壺(祭
祀用)などから祭祀との関連も分かります。

出土品より和伎神社(涌出宮)は延喜式に記載された平安時代中期に創建された神社と推測可能
です。(現神社の区画が平安時代末頃(鎌倉初頭以前)には確立していました。)
涌出宮の祭祀に使用した土器を一括投棄したと思われる土器留り群から宮座行事(居籠祭)との
関連を想像する楽しみも増します。(当神社の宮座行事などは次回につづきます)

参考資料:山城町史 本文編  山城町。 木津町史  本文篇  木津町
     日本古典文学全集1 古事記  同全集2 日本書紀@ 小学館 
     山城町内遺跡発掘調査概報 涌出宮遺跡第2次調査 山城町教育委員会

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック