2017年06月09日

◆白村江の戦い、歴史が示す日本の気概

櫻井よしこ



少し古い本だが、夜久正雄氏の『白村江の戦』(国文研叢書15)が非常に
面白い。
 
昭和49(1974)年に出版された同書を、夜久氏が執筆していた最中、日
本と中華人民共和国との間に国交が樹立された。中華民国(台湾)との国
交断絶を、日本政府が北京で宣言する異常事態を、氏は「これは私には国
辱と思へた」と書いている。

72年の田中角栄氏らによる対中外交と較べて、「7世紀の日本が情誼にも
とづいて百済を援けた白村江の戦は、不幸、敗れはしたが、筋を通した義
戦だった」と、夜久氏はいうのだ。

「その結果、日本の独立は承認され、新羅も唐と戦って半島の独立をかち
とるに至った」とする白村江の戦いを、なぜいま振りかえるのか。言うま
でもない。日本周辺の状況が100年に1度といってよい大きな変化を見せて
おり、中国、朝鮮半島との歴史を、私たちが再び、きっちりと理解し、心
に刻んでおくべき時が来たからだ。
 
かつて中華思想を振りかざし、中国は周囲の国々を南蛮東夷西戎北狄など
として支配した。21世紀の現在、彼らは再び、中華大帝国を築こうという
野望を隠さない。中華人民共和国の野望は習近平主席の野望と言い換えて
差しつかえない。
 
習氏は昨年10月、自らを「党の核心」と位置づけた。毛沢東、ケ小平ら
中国の偉大な指導者に、自らを伍したのだ。まず、秋の全国代表大会でそ
の地位を確定するために、党長老を集めて行われる夏の北戴河会議で、自
身の威信を認めてほしいと、習氏は願っている。そのために、いまアメリ
カのトランプ政権と問題を起こす余裕は全くない。習政権が低姿勢を保つ
ゆえんである。
 
アメリカという超大国に対しては低姿勢だが、逆に朝鮮半島は、彼らに
とって支配すべき対象以外の何ものでもない。その延長線上に日本があ
る。日本もまた、中国の視線の中では支配すべき対象なのである。

百済救済のために
 
663年の白村江の戦いを振りかえれば、日本にとってこれが如何に重要な
意味を持つかが見えてくる。アメリカのトランプ政権が如何なる意味で
も、西側諸国の安定や繁栄につながる価値観の擁護者になり得ないであろ
う中で、白村江の戦いでわが国が何を得たのか、何を確立したのかを知っ
ておくことが大事である。
 
白村江の戦いは663年、日本が、すでに滅びた百済救済のために立ち上
がった戦いである。その前段として、隋の皇帝煬帝(ようだい)の高句麗
(こうくり)遠征がある。
 
隋の第2代皇帝煬帝は612年から614年まで毎年、高句麗遠征に大軍を投入
した。夜久氏はこう書いている。

「進発基地には涿郡(たくぐん)(河北省)が指定され、全国から一一三
万八千の兵があつめられた。山東半島では300隻の船を急造し、河南・淮
南・江南は兵車五万台の供出(きょうしゅつ)の命(めい)をうけた。兵
以外の軍役労務者の徴発は二三〇万という数にのぼった。その大半は地理
上の関係から山東地区から徴発された」
 
煬帝の治政は残酷極まることで悪名高い。夜久氏は、「多数の労働力を
とられた農地に明日の不作荒廃がくるのは必然であった」と書いている。

「山東東萊(とうらい)の海辺で行なわれた造船工人は悲惨のきわみで
あった。昼夜兼行の水中作業で腰から下が腐爛(ふらん)して蛆(うじ)
が生じ、一〇人に三、四人も死んでいった。陸上運輸労務者もこれにおと
らず悲惨であった。旧暦五月六月の炎暑の輸送に休養も与えられず、人も
牛馬もつぎつぎに路上にたおれた。『死者相枕(あいまくら)し、臭穢
(しゅうあい)路にみつ』と書かれている」
 
このようにして612年、煬帝の高句麗親征軍は出発した。100万の大軍の進
行はその倍以上の輜重(しちょう)部隊(糧食、被服、武器弾薬などの軍
需品を運ぶ部隊)を伴い、行軍の列は長さ1000里を越えたという。1里は
約400bとして、隊列は400`にも延びていたということだ。白髪3千丈の
中国であるから話半分としても200`の長さである。
 
現在のように、命令伝達の手段が発達している時代ではない。部隊命令
は当然末端までは届かない。そこで途中で行方不明になる部隊、行き先を
間違える部隊が続出した。高句麗軍はピョンヤン近くまで、わざと敵を侵
入させ、隋軍の退路を断って四方から襲ったと書いている。こうしてピョ
ンヤンに侵攻した部隊、30万5000の兵は、引き揚げたときわずか2700に
減っていたという。
 
この大失敗にも懲りず、隋は613年、614年と続けて討伐を企てた。しか
し、軍は飢餓と疫病に見舞われ、煬帝の力は急速に衰えた。
 
隋の朝鮮遠征を夜久氏は「文字が出来てからこのかた、今にいたるま
で、宇宙崩離(ほうり)し、生霊塗炭、身を喪ひ国を滅す、未だかくのご
とく甚しきものあらざるなり」と描いた。

中国と対等に戦い
 
隋はこうして滅び、唐の高祖が台頭して中国を治めた。唐の2代皇帝、太
宗は文字通り、大唐帝国を築き上げた。
 
そして再び、中国(唐)は朝鮮半島を攻めるのである。日本は前述のよう
に百済救援におもむき、唐と戦い敗北する。敗北はしたが、日本はその
後、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えて国内の体制固めを進めた。国防の
気概を強める日本の姿を見て、最も刺激を受けたのが前述の新羅だった。

彼らが如何に日本の在り様に発奮させられたかは、唐と共に日本に迫るべ
きときに、逆に唐に反攻したことからも明らかだ。新羅はこのとき、日本
を蔑称の「倭国」と記さず、「日本」と記したのである。夜久氏はこれを
「七世紀後半の東アジアの大事件」と形容した。
 
日本は中国と対等に戦い、敗れても尚、「和を請わず、自ら防備を厳に
して三十余年間唐と対峙し続けた」「我々今日の日本人は当時の日本人の
剛毅なる気魄を讃嘆すると共に、自ら顧みて愧(は)ずる所なきを得ませ
ん」という滝川政次郎氏の言葉を夜久氏は引用している。
 
日本が思い出すべきは、このときの日本の、国家としての矜恃であろ
う。敗れても独立国家としての気概を保ち続け、朝鮮半島にも大きな影響
を及ぼしたのが、日本だった。
 
中国が再び、強大な力を有し、時代に逆行する中華大帝国の再来を目指
し、周辺国への圧力を強めるいま、日本は、歴史を振りかえり、独立国と
して、先人たちがどのような誇りと勇気を持ち続けたかを思い出さなけれ
ばならない。
 
トランプ政権はいま、先進国首脳会議(G7)に中国とロシアを入れる考
えさえ提示している。世界の秩序は基盤が崩れ、大きくかわろうとしてい
るのである。このときに当たって、わが国日本が歴史から学べることは多
いはずだ。

『週刊新潮』 2017年6月8日号   日本ルネッサンス 第756回



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