2017年06月28日

◆名所旧跡だより 住友活機園(滋賀県大津市)

石田 岳彦



滋賀県大津市石山に「住友活機園」という施設があります。重要文化財に指定されたお屋敷とその庭園で、毎年5月ころに2日ほど一般に特別公開されている他は、住友グループの社員しか見学できません。

しかも、この特別公開も事前に往復はがきで申し込む必要があり、かつ定員を超過すれば、抽選となります。実際には毎年定員を超過するので、毎年抽選です。

私の場合、最初の申し込みは抽選で外れ、翌年は当選したものの、妻の体調不良で行けず(号泣。冗談抜きに妻と一緒に寝込みました。)、3度目の正直で見学の機会を得ました。今回はその際の話です。

京阪電鉄石山坂本線の東側の終点である石山寺駅から、来し方に向かって5分ほど歩き、新幹線の高架をくぐって、すぐ左側に高い塀で囲まれた森が見えてきます。

苔生した石段を登り、門で見学証(当選を伝える往復はがき)を示して中へ。
入って早々、鬱蒼と葉の茂った木の枝が歩道に垂れかかって、緑の幕のようになっています。

このような演出なのでしょうか。それとも雨で濡れて重くなり、垂れてきたのでしょうか(そう、せっかくの3年越しだというのに見事な雨です。)。坂道を蛇行し、左側に池を見下ろしつつ進んでいくとやがて2階建ての洋館が見えてきます。

洋館の外壁の下半分は鱗のような板で飾られています。鱗といえば、神戸市北野の異人館街にも「鱗の館」というのがありますが、石製のスレートで葺かれた「鱗の館」と異なり、こちらの洋館の鱗は木製なので、「鱗の館」に比べて、見た目にも柔らかな雰囲気です。

洋館の左隣には和館も見えます。明治のころのお屋敷には洋館と和館を併設したものが少なくありません。

洋館で公務或いはビジネス関係の客と会い、プライベートな時間は和館で過ごすという使い分けになります。まだまだ、西洋風の生活様式になじめない人が多く、和館の方がくつろげたということでしょう。明治天皇もプライベートな時間は服装その他で和風を好んだという話です。

この屋敷自体は基本的に隠居所なのですが、住友財閥の元・総理事(住友財閥の筆頭番頭。住友家が王家で、総理事が首相というイメージでよいでしょうか。)ともなると、隠居先にもそれなりにグループ各社の幹部がやってきたのでしょう。

遅くなりましたが、この屋敷の本来の主は、伊庭貞剛(いば・ていごう)といい、上記のように住友財閥で総理事を務めたという超大物財界人です。

貞剛が晩年、故郷、滋賀の地(もっとも、大津市ではなく、現在の近江八幡市の出身のようですが)に建てた隠居所がこの屋敷であり、現在は住友グループの研修施設となっています。

見学者は我々の他、30人弱のようです。このグループで屋敷を見学して回ることになります。(やや記憶が曖昧になっていますが)一日3グループほどで、2日間ですから、特別公開に参加できるのは1年で180人くらいでしょうか(30人×3回×2日)。

一般的な旅行ガイドにはまず記載がないし、滋賀県内でも一般的な知名度が高いとは言い難いのですが、(人のことは言えませんが)世の中には結構マニアックな人が多いです。

案内の方の話によると、例年10倍近い抽選になるところ、今年は東日本大震災後の自粛ムードもあってか、応募数がかなり低く、競争率は2倍程度にとどまったとのこと。

「皆さん運が良いです。」というのが締めくくりの言葉でしたが、「空気の読めない野郎共(の中で相対的にくじ運のよい者)が集まった」と聞こえてしまうのは被害妄想でしょうか。

それはさておき、屋敷の中に入りましょう。

洋館と和館の間は廊下で繋がっていて、中央に玄関があり、そこでスリッパに履き替えて、まず、洋館に進みます。残念ながら室内撮影禁止のため、画像はありません。

壁紙は真っ白、階段も(彫刻はされているものの)白木のままで飾り金具も無い、シャンデリアもシンプル。実に装飾控え目の上品な雰囲気です。

貞剛が設計者に「清楚に」との注文を出していたとのこと。私のような小市民からすれば、洋館のお屋敷という時点で「豪華」と思えてしまうのですが、確かに、少なくとも派手ではありません。

窓ガラスに微妙に歪みがあり、外の光景が若干屈折して見えます。昔の製法で作成されているため、現在のガラスのように均一にはなっていないのです。

現代では再現が難しいとのことで、慣れてしまえば、この歪みも味があるように感じます。古い洋館に入る際には注意して見てください。

2階に登ると貞剛の事績に関するパネルが置かれています。案内の方が特に触れなかったので(奥ゆかしさというところでしょうか。)、自分で読むことにします。

貞剛は別子銅山(愛媛県)の経営の任にあたって成功を収めた人物であり、しかも、精錬場からの煙害を解決するため、これを四国本土から島に移し、或いは銅山開発によって荒れ果てた山に植林を実施した云々。

開発と環境保全の両立を目指す、この時代の人物としてはかなり先見的だったようです(足尾鉱毒事件の解決に尽力した田中正造が、別子銅山については賞賛していたとのこと。)。

大財閥のトップに立つ程の人物となれば、やはり、単に事業家として優秀なだけではなく、自分の哲学を持ち、社会に対して利益を還元できるようでなくてはいけないということでしょうか。なるほど。

廊下を渡って、和館に回ります。こちらは平屋です。


 素人の私には、それなりに広いものの一般的な和室に見えますが、案内の方によると、かなり珍奇で高価な木材を所々に使っているとのことで、幾つか、解説してくださいました。

説明されても素人の私には「そうなんだ。」としか思えませんが。
「分かる人だけ、分かってくれればよい」という、成金趣味とは対極的な趣向です。
 
奥の座敷の襖を開けたところ、暖炉が出てきたのは少々びっくりしました。

庭をのんびりと眺めていると、時々、轟音が響きます。実は、活機園の敷地に入る前から何度と無く響いているのですが。

上でも書きましたが、新幹線の高架橋が活機園の敷地のすぐ傍を通っている(というよりも、本来、新幹線の線路を含め、その向こう側まで活機園の敷地だったのが、新幹線を通す際に分断されてしまい、敷地面積が大幅に減少してしまったそうです。)ので、新幹線が通過する度、耳を劈く騒音が活機園の敷地全域に響き渡ります。

史跡の中にわざわざ新幹線を通さずともよかろうと思わなくもありませんが、「一般人の住宅を何棟も立ち退かせるより、本来の主を既に失った屋敷の広い敷地の一部を割く方がよい」という発想は民主国家としては、おそらく健全なものでしょうね。多分。(終)
                          <弁護士>

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック