2017年08月02日

◆戦争終了前後の悪夢 

渡邊 好造



以前、NHKテレビの特別番組で「太平洋戦争時のアメリカ軍B29爆撃機による東京大空襲の惨状」の記録フイルムを放送していた。1944年の11月〜45年3月にわたる100回以上の猛爆で東京は惨たる有様となった。

死者8万人の大半が民間人で、原爆の死者30万人とをあわせ考えると、アメリカ・ニューヨークビルへの飛行機突入で被害者約5千人(一部気の毒な日本人もいたが)を出した9.11事件について、アメリカ人に非難する資格は全くないと改めて指摘したい。

筆者が育った大阪にも1945年3月頃に大空襲にあったが、直前まで住んでいた大阪市都島区から市内の南端の東住吉区に移転し被害を免れた。しかしここでも300メートル近くまで空爆を受けたが、幸い被害はなかった。

当時、電気は通じていたものの、明るくするとそれを目当てに爆撃されるとして、裸電球に黒い布を被せて戸外に明かりが漏れないようにしていた。空襲警報のサイレンがなると真夜中でもたたき起こされ、防空壕に避難しなければならない。

自宅に風呂はなく銭湯に行くのだが、日が暮れると街燈がなく真っ暗。各家の壁に20センチ幅の白いペンキが一直線に塗られていて、それを目印に家に帰る。ところどころの壁に”3人の日本兵士が銃剣を構えているポスター”が貼ってあり、「鬼畜米英撃滅」と、大書してあったのが今でも記憶に残っている。

戦局が悪くなり本土爆撃が増えてきたため、小学校(国民学校)3〜6年生の子供は、戦争被害を避けるため、都会から田舎へ”集団”疎開または親戚などに”個人”疎開するかを強制選択させられた。

筆者は1年生だったが、叔父夫婦が住む泉北の信太山(現・大阪府堺市の南、関西空港はさらに南)に預けられた。

信太山地区は、周りの殆んどが田圃か田畑で住宅はひとかたまりだった。住宅周辺の1メートル程の水路にはきれいな水が流れ、水藻の間にドジョウが一杯泳いでいたし、小川にはフナ、モロコが手網があれば捕り放題。しかし、これを食べようという習慣はなかった。

田舎だったから大きな敷地に大量の鶏を飼育し、鶏の卵に不自由はなかったものの、鶏の食べるエサの水草やイナゴやバッタを捕獲するのには苦労させられた。家の中のドアを開けたら、ヘビが目の前にドサツというのも何回か。

叔父は会社員だったから食糧不足で、疎開時の思い出はとにかく空腹であったこと。ジャガイモやサツマイモの掘り起こされたあとに残る小さなカケラを小川の石でこすって皮をむき生でかじったり、鶏のエサ用にとらえたイナゴの長い足だけとって食べたこともある。生きたイナゴは甘い味で美味かった記憶がある。

この頃、世の中にこんな美味い物があるのかと思ったのが実は砂糖だった。今思えば馬鹿みたいな話。

天皇陛下の終戦の詔勅は1945年 8月15日。叔父の家のラジオで近所の人たち15名程が集まって聞き入っていた。何もわからない筆者が、周りをウロウロして厳しく叱られた。

戦後間もなく大阪市東住吉区の小学校に戻った。教科書は半分以上が黒く塗りつぶされ何が書いてあるか意味が全く解らない。

当時のおやつは「サツマイモの飴」や「干しバナナ」。甘い飴や本物のバナナがどんなに食べたかったか。今や4本のバナナがたった100円。信じられない。

東住吉区の小学校の運動場には木製の飛行機が残されていた。大阪市都島に近い淀川の河川敷・城北公園にあったのと同じカムフラージュ用ニセモノである。

講堂の屋上には2メートル四方、高さ1メートルの鉄柵があり入れないようにしてあったが、その真下には天皇陛下の写真(御影)が格納され、その上を踏みつけないように してあったのである。卒業までこの柵は残ったままだった。

食糧難はその後何年か続き、親父のお供でサツマイモや米を買いに信太山や岸和田あたりまで行ったりもした。現金は通用せず着物や骨とう品の品物との交換が原則。農家では「こんなもので米はわたせんな〜」といわれる。

せっかく手に入れたヤミ米(戦後もしばらく米は配給制度)を食糧管理法違反で臨検の警察官に没収されたこともあった。親父の情けない顔を思い出す。警察官は取上げた米を仲間内で食べていたと聞いたことがある。真偽は不明。
(完)
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