2017年08月06日

◆史上最初の29連勝 14歳の快挙

加瀬 英明



中学3年生の藤井聡太4段が、将棋公式戦で史上最初の29連勝を果したこ
とが、日本全国を涌かせた。藤井君の快挙に喝采したい。

ふと、私は藤井君を少年扱いにするのは、日本社会が幼児化しているから
ではないのだろうかと、訝った。

藤井4段は満14歳になる。将棋だけではなく、いろいろな分野で、第2、
第3、第4の藤井君が現われてほしい。

今年は明治元年から数えて、150年目に当たる。徳川時代が終わるまで、
地方によって異なったが、武家、庶民ともに、男子は12歳から16歳(満11
歳から15歳)で、前髪を剃り落して元服し、成人の仲間入りをした。

 日本の社会の幼児化が進んでいる

この30年ほどだろうか、日本の社会が幼児化しているために、活力を衰え
させているのではないか、不安に駆られる。

政府が高等教育の無償化を実現しようとしているが、今日の日本には大学
の数が多すぎる。3分の1か、4分の1で良いのではないか。

高校の数も、多すぎる。大学や、高校の数が多すぎるために、国民の教育
水準を低いものにしている。

何よりも日本の活力を奪っている元凶は、受験戦争だ。

学校や企業の場におけるいじめが、大きな社会問題となっているが、受験
戦争は国家が主宰している壮大ないじめだ。

 少年の心を歪めてはならない

私は敗戦の年に、国民学校(昭和16年4月から小学校がそう呼ばれた)3
年生だった。長野県に疎開したが、戦争最後の1年間は授業がほとんど無
かった。鎌を片手に軍馬の秣(まぐさ)刈りに動員されたが、戦争に勝つた
めだと信じて、小さな胸を誇りでいっぱいにして、励んだ。

占領下の小学校では、上級生が使った教科書で学んだが、ところどころ墨
が塗られて消されていたうえ、満足な授業が行われなかった。封建的だと
いうので、習字も無かった。

大学に進むまで、いまわしい受験戦争も無かった。私は鎌倉で育ったが、
仲間の子供たちとのびのびと時間が経つのも忘れて、自然のなかで遊ん
だ。二宮尊徳の歌に「音もなく香もなく、常に天地(あまつち)は書かざる
経をくりかえしつつ」という句があるが、人との絆(きずな)や、生きる悦
びを身につけた。

人が育つためには、少年期に過度に束縛されず、友達たちと好きな時間を
送ることが、必要だと思う。少年時代はいってみれば、人生の幅広い土台
をつくる正3角形の底辺のようなものだろう。底辺が大きいほど、3角形
が大きくなる。

 和泉式部と樋口なつの教養の深さ

学校教育を、盲信してはならない。大隈重信は佐賀藩の藩士の子として藩
校に通ったが、晩年に遺した自伝のなかで「頑固窮屈な朱子学のみ奉じ
て、一藩の子弟をことごとく鋳型のなかに封じ込めようとした」と、非難
している。重信は満14歳で騒動を起こして、退校処分となった。

武家の男子は全員が藩校で学んだが、庶民の子は男女とも寺子屋に通っ
た。寺子屋は江戸期に全国で2万以上を数えたが、4年制が多く、どれも
が地域住民による手造りだった。

私は和泉式部をはじめとして、多くの歴史上の女性に恋している。その1
人に、5000円札に肖像を飾っている、樋口一葉がいる。本名を樋口奈津、
あるいはなつといった。

なつの父親は今日の山梨県にあった、甲斐の国の貧農の息子だった。村の
庄屋の娘と道ならぬ恋をして、2人は幕末の江戸に駆け落ちした。

父親は暦が明治に変わると、東京府の最下級の役人として就職して、なつ
は明治5年に鍛冶橋にあった、長屋の官舎で生まれた。なつの最終学歴と
いえば、尋常学校4年である。当時の小学校は、4年制だった。

父親はなつが幼いころから、万葉集や、『源氏物語』などの古文学を教え
た。今日の日本では想像できないだろうが、貧農の子だった父親に、それ
だけの教養があったのだった。

なつが17歳の時に、父親が死んだ。なつは母と妹の生活を支えるために、
洗い張りや針仕事をしながら、小説を執筆した。25歳で極貧のなかで病死
したが、明治最大の女性の文豪となった。

 教育は受けるものではない。求めるものだ

伊能忠敬をとろう。私の父方の祖母は千葉県八日市場の醤油造り農家の娘
だったが、忠敬の曾孫(ひまご)に当たった。そこで、私も忠敬の血を引い
ている。祖母は15歳で銚子の隣にある、旭の祖父に嫁いだ。祖父は17歳
だった。当然のことに、祖父も祖母もその年齢で責任感に溢れていた。

忠敬は幼名を三治郎といい、九十九里浜の農家に生まれた。幼時に漁具を
しまった納屋の番をしながら、親から、また寺子屋で読み書きや、算盤を
習った。寺子屋では師匠が子供たちを、厳しく躾けた。17歳で佐原の庄
屋だった伊能家に婿入りして、忠敬と名乗った。

50歳で隠居したが、それまで独学で天文学や暦学や、和算を学んでいた。
隠居すると江戸に出て、幕府の天文方だった高橋至時に弟子入りして、天
体観測や、測量を修めた。

忠敬は55歳で、深川の富岡八幡宮から全国測量の第1歩を踏み出した。忠
敬が作製した日本地図は、今日、海岸線が埋め立てなどによって、大きく
変わってしまっているが、驚くほど正確なものだ。

江戸期の日本は庶民のなかから、無数の優れた学者を生んでいる。これは
世界でも珍しい。二宮尊徳は後に士分に取り立てられたが、農家の出である。

どうして150年前に、アジアのなかで日本だけが明治維新を成し遂げて、
近代化することに成功して、たちまちうちに世界を支配していた白人国家
のなかで、対等の地位を獲得することができたのだろうか。

明治維新を招き寄せた志士や、明治の日本の発展を支えた先人たちは、ま
ず自分をつくり、新しい日本をつくった。

ところが、今日の日本の青少年は、受験戦争といういじめを加えられて、
健やかな人格を形成する少年期を奪われている。子供たちは幼稚園や小学
校のころから、“合わせる人生”を送ることを強制されて、自立心を培うこ
とができない。

 “つくる人生”と“合わせる人生”

幕末の志士や明治の先人たちは、1人ひとりが“つくる人生”に挑んだ。も
し、今日の日本の若者のように、ひたすら“合わせる”ことに努めていたと
したら、近代日本はなかった。

もし、高等教育を無償化したら、日本からすでに死語に近くなっている
が、苦学という言葉がなくなってしまおう。国民の多くが、人生が楽の連
続でなければならないと、信じるようになっているが、日本を偽りの楽園
にしてはなるまい。

15年ほど前までは、今、マスコミを賑わせている「就活」という言葉は、
存在しなかった。青年の大多数が自分を官庁や、できるだけ安定した企業
に合わせて、身を委ねたい。

「終活」といって、人生の終わりを準備する言葉まで、流行っている。本
来、活動という言葉は、いきいきと行動することを意味しているが、就活
や、終活というと、生気が感じられない。

 なぜ、中国と李氏朝鮮は無為無力で亡びたか

19世紀に西洋の帝国主義勢力が、津波のようにアジアに押し寄せた時に、
中国も、李氏朝鮮も、日本と異なって、新しい挑戦に対応することができ
ず、立ちすくむだけだったために、亡国を強いられた。

その大きな原因が、科挙制度にあった。科挙が、両国から活力を奪った。
隋代から行われたが、2000年前の四書五経の暗記力を試すものだった。

受験戦争は科挙によく似ている。日本を滅ぼすことになるのではないか。


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