2017年08月20日

◆文革40年目の沈黙

渡部 亮次郎



2006年5月16日は中国で数千万人を殺したと言われるあの文化大革命(文
革)の40周年記念日のはずだが、伊藤正産経新聞中国総局長によると、公
式な記念行事はなんら予定されていない、という(2006・5・13付け産経新聞)。

革命の父とは言いながら、毛沢東の犯した誤謬を記念することには、いく
らなんでも抵抗があるだろう。しかし毛沢東思想は現在の中国の政治をが
んじがらめに束縛している。「永遠に高く掲げ続けねばならない毛思想」
(胡錦濤国家主席が03年の毛生誕110周年で行った演説)だから、何かやる
だろうと考えたくなるではないか。

中国共産党の文化大革命に関する公式コメントでは、<「わが党が犯した
最大の過ちである」と認識、謝罪した。毛沢東についても、「七分功、三
分過」というケ小平の発言が公式見解のようだ。

一応国定教科書にも取り上げられるが、中国は現在も実質上の言論統制下
にあるため「四人組が共産党と毛沢東を利用した。」という記述にとど
まった。>(ウイキペディア)

1966年5月16日、毛沢東から林彪に宛てた「5・16通知」で文化大革命は開
始された。日本で、昭和41年と言えば佐藤「反動」と中国が呼ぶ内閣が成
立して2年目。

佐藤総理の師匠たる吉田茂元総理の指示でもあっただろう、佐藤総理は台
湾に逃げた蒋介石政権を認め、中華人民共和国(昭和24年10月1日成立)を
認めようとはしなかった。

中国とは絶対呼ばず「中共」と言い続けた。その時、中国では成立後に展
開した「大躍進政策」の失敗から、革命を成就させたはずの毛沢東の権力
が衰え、劉少奇ら実権派が権力を握り始めていた。

日本と中国は国交が断絶してはいたが、1964(昭和39)年4月19日、北京で
結ばれた日中記者交換協定(68年に人数を8人から5人に減らした)に
よって新聞・放送記者が北京に駐在していたので、文化大革命とか紅衛兵
(こうえいへい)とか造反有理といった断片的なニュースは伝えられた。

しかし、隣国とはいえ、国交の無い国のこと。韓国との正常化をやっと果
たしたばかりで、中国への一般国民の関心は低かった。専ら日本社会党が
往来し、天津甘栗の輸入利権を獲得しているという噂だった。

自民党では松村謙三、竹山祐太郎、古井喜実、田川誠一、川崎秀二といった
反主流派だけが活躍する「別世界」の感じだった。

<1971年7月のキッシンジャー大統領特別補佐官の中国訪問ほど、世界を
驚かせ、世界を変えた事件も少ない。それは、50年の朝鮮戦争勃発(ぼっ
ぱつ)以来の米中関係を大きく転換させ、アジアの国際関係に根本的な変
更をもたらした>(北岡伸一元東大教授)。

<ニクソンはベトナムからの撤兵を進めるためにも中国との関係を調整
し,国際秩序の協力者にする必要があり,他方中国側も中ソ対立の状況の
もとで対米関係の改善に応じるだろうとの見方をしていた。

米中接近は71年4月中国がアメリカ卓球チームを招いた「ピンポン外交」
とそれに続くニクソンの訪中希望の表明で盛り上がり,キッシンジャーと
周恩来総理との北京における秘密裡の会談をへて,7月にニクソンの訪中
計画が発表されるにいたり,世界にニクソン・ショックともいうべき衝撃
を与えた。>(小用悦子)

佐藤政権はこうした意向をニクソン政権から全く汲み取っていなかった。
アメリカ大使下田武三、牛場信彦氏らは○○○桟敷に置かれていた。キッシ
ンジャー訪中のニュースを聞いて私は確か国会議事堂のどこかで立ち往生
した記憶がある。

これが佐藤政権にとって如何に大きな打撃となったか。国内では事件事故
も相次ぎ、遂に佐藤内閣は沖縄返還を花道に退陣を余儀なくされたので
あった。

次いで登場した田中角栄総理が1972(昭和47)年9月29日、北京の人民大
会堂で共同声明に調印して、日中国交を再開したわけだが、その時同行し
た我々記者団が目にしたものは、天安門広場にいまだ林立する「佐藤反動
内閣打倒」の立看板の数々だった。「街頭では絶対写真撮影をしてはいけ
ません」の理由は或いはこれだったか。

毛沢東が田中総理、大平外相、二階堂官房長官を自宅に招いて引見したの
は9月27日未明のこと。われわれ日本人記者団に知らされたのは明るく
なってカラー写真数枚を配ってからであった。だから私が見た毛沢東はそ
の6年後、天安門広場の記念館で眠っている姿だけである。

まだ、毛沢東の虎の威を借りる4人組は健在で、張春橋は上海で我々にご
馳走してくれて、握手をしてくれた。あれほどの柔らかい男の手を知らない。

4人組の中核だったから文革後、81年の裁判で断罪されたが、文革の真犯
人は毛沢東そのものではないか。だから、胡主席としても沈黙を守るしか
なかろう。

いつでも考えるのだが、あのまま、毛沢東が生き続けたら今日の中国は絶
対にありえない。もちろん貧富の差、地域の差も起こらない、敗戦直後の
日本のような貧しい状態が続いたことであろう。帰国直後に私は「あと50
年はかかる」とどこかに書いた。

それが今日、早くも潜在的GDPは3200億ドル、 とうにイギリス、フラ
ンスを抜いて米日独につぐ「経済大国」になっている(英誌『エコノミス
ト』06年4月29日号)と発展し続けているのは、ケ小平の「改革・開放路
線」の採用が理由に他ならない。

しかし改革開放はいわゆるブルジョワという文革のきっけとなった走資派
を「生産」し続けるものであり、文革の対象となった「原因」を息もつか
ずに作り続ける「矛盾」を犯していることに他ならない。

文革の死者は2000万人、被害者1億人、経済的損失約5000万元といわれて
いるが「社会秩序の崩壊、風紀の混乱、人間関係の破壊など、文革の傷痕
はいまなお癒えてはいない」(岩波 現代中国事典 辻康吾)

しかし、「革命中国の歴史は文革に限らず権力闘争と民衆抑圧の連続であ
る。それを生む要因は非民主的な政治体制だ。中国には自らの歴史に学
び、政治改革を進めるよう望みたい」(産経新聞2005年5月12日「主張」)
とは言ってみても、それをやれば共産党は消滅するということだ。

だから民主化はやるはずが無い。政治的矛盾は革命によってしか解決され
ない。反革命の危険性を常に抱える結果となっている。だから法輪功など
少しでも「群れる」者を敵視するわけだ。2006.05.13


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