2017年09月12日

◆星野哲郎えん歌4000曲

渡部 亮次郎



戦後、演歌界の大御所作詞家は石本美由紀だが、それに優るともおとらな
い作詞家は星野哲郎だろう。2人ともこの世の人では既にない。

星野は、石本に遅れること1年、2010年11月15日,85で死んだ。若い頃、高
等商船を出て船員になったものの、腎臓結核で断念、腎臓の片方を摘出す
るなどしたが、幸運にも長生きだった。

晩年の美空ひばりの「みだれ髪」、北島三郎の「なみだ船」を作ったかとお
もうと「黄色いサクランボ」や渥美清の「男は辛いよ」も星野の作詞。演
歌だけでなく応援の援歌だとも言って4000曲を遺した。

世に出していない「遺作」が数千曲があるといわれており、今後も新作が
出現するだろう。

星野哲郎(ほしのてつろう、本名:有近哲郎、1925年9月30日 - 2010年11
月15日)は日本の作詞家。山口県大島郡周防大島町(旧・東和町)出身
で、東京都小金井市に在住していた。妻(1994年没)との間に一男一女が
おり、長男はシンガーソングライターの有近真澄。

1946(昭和21)年、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)を途中結
核で休学しながらも卒業。翌年、日魯漁業(後のニチロ、現・マルハニチ
ロ食品)に入社、遠洋漁業の乗組員となる。

しかし就職して数年後、腎臓結核のために船を下りざるを得なくなり、腎
臓を摘出。郷里周防大島にて4年にわたる闘病生活を余儀なくされる。

4年に及ぶ闘病期間中に作詞を独学。家庭教師の傍ら1952(昭和27)年に
雑誌「平凡」の懸賞に応募した「チャイナの波止場」が入選し、選者の石
本美由紀の勧めで、翌1953(昭和28)年に作詞家デビューした。

石本の主宰していた歌謡同人誌「新歌謡界」に参加、同人として作品の発
表や後進の育成に携わった。「新歌謡界」は多くのプロ作詞家を輩出し、
同期生には松井由利夫・たなかゆきを・岩瀬ひろしらがいる。

1958(昭和33)年、横浜開港100年祭記念イベントに応募した「浜っ子マ
ドロス」「みなと踊り」がそれぞれ1位、2位を獲得。このイベントの審査
員をしていた作曲家の船村徹に誘われる形で上京、日本コロムビアと専属
契約を結ぶ。

船村とは以後永きにわたってコンビを組み、作詞:星野哲郎、作曲:船村
徹の作品を数多く世に輩出することになる。1964(昭和39)年にクラウン
レコードの創設に関わり、同レコードに移籍、1983(昭和58)年にフリー
作家となる。コロムビア時代からを通じて手がけた歌詞は演歌を中心に
4000曲に及んだ。

1996(平成8)年7月9日、石本美由紀の後を継いて社団法人日本作詩家協
会の会長を務め、2001(平成13)年10月1日には社団法人日本音楽著作権
協会 (JASRAC) の会長を務めた(2004年9月30日まで)。

これらの功績が認められ、1986年(昭和61年)4月29日には紫綬褒章を、
1988年(昭和63年)8月31日には紺綬褒章を、2000年(平成12年)11月3日
には勲三等瑞宝章を受章している。

1988(昭和63)年6月16日には出身地である東和町(現・周防大島町)の
名誉町民に選ばれ、2008(平成20)年6月5日には宮崎駿と共に居住地であ
る小金井市の名誉市民第一号に決定し、同年10月5日に名誉市民証が授与
された。

1985(昭和60)年2月21日、故郷周防大島に「なみだ船」(歌唱:北島三郎)
の歌碑が建立される。2007(平成19)年7月26日には周防大島町に町営の
「星野哲郎記念館」が完成、周防大島の子供達を支援する償還義務のない
奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」事業を立ち上げた。

2010(平成22)年11月15日午前11時47分、心不全のため東京都武蔵野市の
病院でで死去。享年85。葬儀・告別式は11月19日に東京都港区の青山葬儀
所で営まれた。喪主は長男の有近真澄が務めた。

葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子
が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺され
た。戒名は「宝徳院航謡暁哲居士」。

星野哲郎の死去に当たり、日本放送協会が追悼番組『追悼 作詞家 星野哲
郎』を急遽制作し、2010年11月21日にNHK総合テレビジョンにて放送した。

星野節とも称される、自分の実体験をベースにした独特の世界観を持つ
作風で知られる。船村や石本と銀座に繰り出しては音楽論をたたかわせ、
そのとき思い浮かんだフレーズをコースターにしたため、翌朝までに夫人
がそれを清書した物を作詞の下地としていたという。

こういった形で生まれた歌詞を星野自身は「演歌」と称さず、遠くにあり
て歌う遠歌、人との出会いを歌う縁歌、人を励ます援歌などと称してい
た。星野哲郎記念館でも、これらをまとめて星野えん歌と表現している。

なかにし礼によると、性格は大変穏和で、「荒っぽい大声はついぞ聞いた
ことがなく、後輩でも丁寧に扱った」という[。

水前寺清子・都はるみ・北島三郎など、デビュー前から関わってきた歌手
も多い。水前寺の愛称である「チータ」は「ちっちゃな民子」から連想し
て星野が名付けたものである。

主な作品
青山ミチ 叱らないで(1968年)
渥美清 男はつらいよ(1970年)

北島三郎
なみだ船(1962年) 兄弟仁義(1965年)
函館の女(1965年) 風雪ながれ旅(1980年)
北の大地(1991年)
小林旭  自動車ショー歌(1964年)
昔の名前で出ています(1975年)

小林幸子  雪椿(1987年) 福寿草(1989年)

島津亜矢
愛染かつらをもう一度(1991年)母ごころ宅配便(1993年)
海鳴りの詩(1995年)女にゃ年はいらないよ(1996年)
感謝状〜母へのメッセージ〜(1997年)
波(2001年) 海で一生終わりたかった(2003年)
大器晩成(2005年) 温故知新(2010年)

水前寺清子

涙を抱いた渡り鳥(1964年)
いっぽんどっこの唄(1966年)
いつでも君は(1967年)
三百六十五歩のマーチ(1968年)
真実一路のマーチ(1968年)

スリー・キャッツ、ゴールデンハーフ
黄色いサクランボ(1959年)

瀬川瑛子
函館の雨はリラ色(1970年)
たそがれ港町(1971年)
高知の夜(1972年)
あのひとの雪国(1972年)
再見上海(1973年)
釧路の夜白い夜(1974年)
噂・モトマチ・涙町(1974年)
たばこ(1975年)
長崎霧情(1977年)
東京夜景(1978年)
月あかり(1978年)
相生橋(1981年)
サザン瀬戸ブルース(1987年)
春の海(1989年)
潮騒の町(1989年)
海の城下町(1990年)
帰らぬ夢(2006年)

鳥羽一郎
兄弟船(1982年)

西方裕之
北海酔虎伝(1987年)
流れる(1988年)
恋文流し(1993年)

美川憲一
お金をちょうだい(1971年)(2010年)

美空ひばり
みだれ髪(1987年)
塩屋崎(1987年)
都はるみ
アンコ椿は恋の花(1964年)
夫婦坂(1984年)

山形英夫
親子鯨(1958年)
山口瑠美
寿宝船 ことぶきたからぶね(1999年)

山本譲二
長州の男(1986年)
七夕月(萩の花咲く頃)(1993年)
生きる(2003年)

鰐淵晴子
春うらら(1967年)

その他 母校の後継校である東京海洋大学の新校歌を作詞している。作曲
は鈴木淳。また、旧東和町の大半の小中学校の校歌の作詞を手がけている。

長崎国際大学の校歌の作詞している。作曲は都倉俊一。

周防大島の伊保田港と柳井港・松山港を結ぶ周防大島 松山フェリーの就
航船「しらきさん」は周防大島の白木山にちなんで星野が命名したもので
ある。

自らが元船乗りと言うこともあってか、海や船・港にちなんだ歌詞が多
く、これがきっかけで1971(昭和46)年には運輸大臣より海事功労賞が、
1985(昭和60)年には運輸大臣より交通文化賞を送られている。(「ウィ
キペディア」)12・5・3



 
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