渡部 亮次郎
日中国交正常化40周年とか。確かにNHK政治記者時代、総理官邸取材
チームのサブキャップだったので、交渉のため北京を初訪問する首相・田
中角栄に同行した。
この正常化が果たして正しい選択だったか、その後の外務省のフォローが
正しかったかなど、評価は様々だろうがとにかく36歳のときのこと。忘れ
去る前に、思い出の記を残しておきたい。
中国の公衆便所には仕切り板もドアもなかった。万里の長城を訪れたとき
のこと。其処の公衆便所に入って驚いた。学校の体育館みたいな板敷きの
広いところに細長いアナが何十もあいていて仕切りもドアも無い。底に
しゃがんで用を足せというのだ。
前にしゃがんでいる男の尻をみながら用を足せ。自分の尻も後ろから見ら
れているのは当然である。
「記者」とかカメラマンは政権の敵である。反革命分子も潜り込んでいよ
う、殺し屋も潜んでいるかもしれない。何しろ国営通信社新華社の人間以
外は「敵」である。
偉い人に数m以上近付く記者は「近距離記者」。「遠距離記者」は20m以
上は近付いてはならない。日本人記者とて田中首相にやたら近づいてはな
らん。
カメラの望遠レンズは事前に中国側の点検を受けなければいけない。中に
銃が仕込まれていないとは限らないからだ、という。
やたらチップをやってはいけない。もらう人間はいないからだ。ところが
西日本新聞の記者が運転手に金張りダンヒルのライターをさしだしたとこ
ろ、人目のないことを見て取ってすばやくポケットにしまいこんだ。
1972年北京市内にはタクシーがまだ走っていなかった。万里の長城へ行く
バスに乗り遅れてしまった。共産党から特別に車をだしてもらったがこち
らは中国語が喋れない、相手は日本語がわからない。それでも何とか車を
出してもらったのは、フランス語が通じたからだった。40年経ってフラン
ス語はすっかり忘れた。
その車は時速40Km以上は出なかった。それでもバスに追いついた。バス
は40Km以下だったのだ。
5分も走ったら郊外に出た。肥えたごかつぎにであった。記者団のバスが
通過したからと許可が出たのだろう。
私に付いた通訳は石家荘から動員された小母さんだった。平かなが書け
た。なぜかと聞いても答えなかった。彼女ら通訳を通じて日本側記者の言
動は逐一、上部に報告されているものと承知していた。
「そろそろ粥がたべたいな」とつぶやいたら翌日の朝食が粥だった。
北京でも上海でも生水を絶対飲んではいけない。猛烈な下痢をおこす。だ
から同行記者団は一様に遠足よろしく、水を背負っていった。(それから
35年後、このことを忘れ、杭洲で水割りウィスキーを呑んで下痢。遂には
低血糖に陥り死に掛けた)。
田中首相・大平外相・二階堂官房長官が毛沢東の「謁見」を許されたと知っ
たのは翌朝。中国側が用意したカラー写真を配られて初めて知った。真夜
中の3時ごろだったらしい。その数時間後に何十枚ものカラー写真を制作
する能力があったとは、今も驚きだ。「宣伝」には特別長けているのが中
国共産党。
一行は上海にも1泊。そのときはじめて「大衆」と出合った。彼らが戦後
初めて目にする「敵」日本人。明らかな敵意を感じた。2012・9・28