櫻井よしこ
トランプ敗れたり。
これが北京での米中首脳会談、それに続くベトナム・ダナンでのアジア太
平洋経済協力会議(APEC)におけるドナルド・トランプ、習近平両首
脳の発言を聞いての結論である。
私たちの眼前で起きているのは、米中どちらが世界のルールメーカーにな
るかの、熾烈な闘いだ。かつて東西の冷戦でアメリカはソ連に勝利した。
いま米中の闘いは米ソのそれのようにイデオロギーで割りきれる単純なも
のではない。
どれ程中国のやり方が嫌でも、どうしても切り離せない所まで相互に織り
込み合った経済関係の中に世界全体があり、しかし掲げる価値観はあくま
でも相容れないという状況下で、米中どちらが覇権を奪うかは周辺諸国に
とってこの上なく深刻な問題だ。アメリカにとっては超大国の座と国運を
賭けた闘いである。
この闘いの真の意味を理解しているのは中国側である。トランプ氏以下、
大統領に助言を与え続けていると思われるヘンリー・キッシンジャー氏も
含めて、アメリカ側はそのことについて理解が及んでいないのではない
か。従ってアメリカには大戦略がない。あるのは眼前の利害を重視する戦
術だけではないか。
中国で盛んに喧伝されているのが「中国5000年の歴史」である。中国共産
党と習政権が作り上げる新たな歴史物語は、国民を鼓舞し、中国共産党の
権威を高めるために是非必要なフィクションだ。中国の歴史は他国の及ば
ない規模であるためには、5000年でなければならないのである。
トランプ大統領はアメリカの歴史の20倍以上も長い中国の歴史について聞
かされ、壮大な建築物や見事な歴史遺産を見せられ、さぞ、印象を深めた
ことだろう。
国賓以上のもてなしはトランプ氏を圧倒的に魅了するためであり、紫禁城
の貸し切りも、習夫妻直々の案内も同様だったはずだ。
歯の浮くような賛辞
加えて、中国が提示した28兆円に上る種々の契約は、ディール好きで、
ディールの名人と自称するトランプ氏の心を掴んだことだろう。確かに誰
しもが驚いた金額だが、すでに始まった詳細な分析では、28兆円は従来の
中国の対米投資を含めた累計で、その衝撃的な数字は真水の数字ではない
こと、割り引いて考えなければならないこと、種々の契約が確約されたと
考えるのも楽天的にすぎることなどが指摘され始めた。
全容の実態はまもなくわかるはずだ。しかしその前にトランプ氏は明らか
にこの額に目が眩んだ。訪中2日目の11月9日、人民大会堂での米中首脳の
共同記者会見は、両首脳の姿勢の違いと共に、トランプ氏が目眩ましをく
らったことが明らかになった場面だった。
習氏は一帯一路の経済効果と未来に及ぼす大きな影響について説き、太平
洋は米中2カ国を容れるに十分な大きさの海だと述べている。今更指摘す
る必要もないが、これは中国が年来求めてきた大戦略、「新型大国関係」
と「太平洋分割統治論」の繰り返しである。
中国側はあくまでも米中で世界を仕切る体制を作りたいのだ。その先に、
中華民族が世界の諸民族の中にそびえ立つ日を目指していると、習氏は先
の共産党大会で述べている。
記者会見で習氏は、両国は双方の国からの亡命者の避難の地となってはな
らないという点で一致したとも述べた。これは、中国の民主化を求める
人々、民主化運動に参加した結果、中国にいられなくなり、アメリカに逃
れた人々にとっては深刻な合意だ。アメリカが思想信条の自由を守る砦と
しての役割、亡命者の受け入れを拒否するのかと疑わせる。
習主席が中国の戦略に従って主張し、取るべきものを取ったと思わせる演
説をしたのに対し、トランプ大統領は習氏への賛辞に終始した印象だ。無
論、トランプ氏は北朝鮮、麻薬、経済、知的財産権などについても言及し
たが、28兆円に喜んだ結果、個々の問題には深く入らずに、サラッと通り
過ぎたという印象だ。発言の最初と最後には習氏に歯の浮くような賛辞を
贈っている。
「中国国民は自分たちが何者であるか、何を築き上げてきたかについて誇
りを抱いている。彼らはまた、あなた(習氏)のことを、非常に誇り高く
思っている」
このような賛辞の連続を聞けば、トランプ氏は本当に習氏に心酔してし
まったのかと感じさせられる。
北京からベトナムのダナンに移ってAPECで行った演説は耳を塞ぎたく
なる内容だった。ここで期待されていたのは、国際法を無視して南シナ海
をわが物顔に占拠し軍事拠点化し、ASEAN諸国に分断政策を適用し
て、彼らの抗議にまともに対処しようとしない中国に対して、アメリカが
抑止力を発揮してくれることだった。アメリカが国際法を擁護し、法によ
る秩序の確立を主張し、問題の解決に武力ではなく平和裡の多国間の協議
を以てし、航行の自由を守り、どの国も安心して南シナ海で活動できるよ
うに、軍事的手段も用いて主導権を握る決意を示すことが期待されていた。
トランプ氏のアジア歴訪直前に、ティラーソン国務長官はインド・太平洋
の平和構築について語った。日本、インド、オーストラリアと共にアメリ
カは広大なインド・太平洋圏の擁護者にならなければならないという主張
である。
危機感と戦略的思考の欠落
これは、2016年に安倍首相がアフリカ開発会議(TICAD)で提唱した
考えだ。アメリカ国務省が安倍首相の提言を取り込んだ。それをトランプ
大統領も口にした。日本国の首相の外交・戦略論をアメリカが採用したこ
とは未だかつてなかったことで、もし、トランプ政権が本気でインド・太
平洋圏構想を実現するのであれば、中国の一帯一路やアジアインフラ投資
銀行(AIIB)よりはるかにすばらしい大戦略をこちら側が構築でき
る。その意味でもトランプ氏の発言が注目された。
しかし、トランプ演説は失望以外の何物でもなかった。トランプ氏は、こ
れ以上の不公平な貿易や不条理な赤字には耐えられないなどと繰り返し、
ひたすらアメリカの利益について語ったのだ。インド・太平洋という言葉
は登場はしたが、その肉付けとなる具体策は何も示さなかった。何よりも
足下の危機である南シナ海については、その固有名詞は遂に一度も登場し
なかった。危機感と戦略的思考の欠落を示してトランプ氏の演説は行われた。
内向きになりつつあるトランプ氏とは対照的に習氏は広く門戸を開くこ
と、国際協調の重要性を指摘した。語った言葉だけを聞けば、習氏の方が
世界の指導者たる資格を備えているように思える。これ以上の皮肉はない
だろう。言葉とは裏腹の中華思想の世界に、私たちは引き込まれていって
はならないのである。
『週刊新潮』 2017年11月23日 日本ルネッサンス 第779回
2017年12月12日
◆習近平皇帝に屈服、トランプ大統領
at 09:00
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| 櫻井よしこ
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