“シーチン”修一 2.0
前回、資産家の「ウメダのオジサン」の話を書いたが、わが街の大地主た
ちが皆「苦虫を嚙み潰したような」顔つきをしている理由が「ははーん、
そうだったのか」と合点がいった。
つまり彼らは、細切れで貸した土地をいつかは返して欲しいのだが、借地
人は「お貸し下され」で、返却するつもりなんてまったくないのだ。昭和
30年(1955)、今から60余年も前にわが家はこの街に越してきたのだが、
駅前は畑と原っぱで、店は米屋、豆腐屋、菓子屋、文房具屋、駅の売店し
かなく、民家がぽつぽつあるくらいだった。
新築のわが家は桃畑の中で、秋にはガチャガチャなどの虫の声が大きく、
母は「うるさくて眠れない」とこぼしていたものである。
土地は溢れるほどあり、地主=農家は「キャッシュが入るのなら」と、ま
ともな賃貸借契約書などを交わすことなく、細切れで安く貸したのだ。敗
戦からまだたったの10年で、借りてくれるのなら御の字、という時代だった。
(わが街は昭和初期(1930年頃)に国鉄の旅客駅ができたことで発展の芽
が吹き始めたのだが、祖父などが「無償で土地を提供するから」と誘致し
たのである。それから半世紀余を過ぎて国鉄が民営化された折(1987
年)、駅前広場の所有者が祖父たちの名儀のままになっていたのでひと悶
着あった。昔は土地取引ものんびりしていたのだ。境界線の杭なんて「♪
おら、見たことねえ」。)
1960年あたりから経済成長が始まり、1964年の東京五輪特需で高度経済成
長に火がついた感じだった。わが街では東名高速建設で農地が高額で買収
されたことで街の経済が一気に加速された。首都圏の郊外は多分そんな風
にして発展していったに違いない。
農林水産業などの第一次産業しかなかったところに、アパート、工場、戸
建てなどがどんどんできていった。農家は大小あれど地主になっていった
のだ。そして今はバブルの時のようにすさまじいほどの勢いで大きなマン
ションが生まれている。
今、祖父から数えると2代目(80歳代)、3代目(70〜60歳代)、4代目
(60歳未満)の時代で、大地主は細切れで貸し出した土地を一つにまとめ
てビルを建てたいから、きっちりと賃貸借契約を交わしたいのだが、借地
人は「契約書を作れば返済期日が明記されるから嫌だ」とまったく話に乗
らないし、会計士や税理士は「出て行ってもらうには土地代と同額の補償
金を払わないと、まず無理ですね」と言うから、地主たちはウーンとう
なって、苦虫顔になるのである。
小生はミニ地主でもあるが、借地人に契約書を作りましょうと声をかけた
が「なしのつぶて」。借地人は東京工大出の国交省官僚、その兄貴は弁護
士、小生がいくらワーワーやったところで勝てるわけがない。今の法律は
借りた者勝ちなのだ。小生が何十年も世話になっている税理士も「出て
行ってもらうには結構なカネがかかりますから・・・」と、暗喩で「諦め
なさい」という顔つきだ。
地方を含めて全国の駅前はそんな事情で、地主は動きたくても動けず、借
地人は跡継ぎもなく、シャッター通りと化し、権利関係がすっきりしてい
る郊外には大型店舗ができ、駅前はますます閑散としていくという、どう
しようもない状況だろう。
今さら駅前再開発を叫んだところで、車の普及もあって消費者の動線は郊
外の大型店舗に向かっているのだから、もう駅前の賑わいなんてとても取
り戻せやしない。第一、跡継ぎがいないのだからどうしようもない。
♪白樺 青空 南風 こぶし咲く あの丘 北国の ああ北国の春
それは大層美しいだろうが、都会に出た人々にとって故郷はもはやとっく
に「遠くにありて思うもの」なのだ。山本夏彦翁曰く「なったらなった
で、ならなかった昔には戻れない」。
戦後の農業政策は独立自営農家の発展を基礎にしていたが、企業が農業分
野にどしどし進出しない限り地方はひたすら寂れるばかりだろう。AI、ロ
ボットなどが発展するからそれほどの雇用にはならないだろうが、優秀な
若者が地元にとどまる可能性はある。あるいは「地方でやってみよう」と
いう若者が都会から来るかもしれない。
何かをやるには狂気じみた信念と行動力が必要で、お行儀のよい政治家や
官僚ではできない。「あんたは個人農家を殺す気か!?」と非難されても
「そうだ、お前ら死ね、死屍累々の中から日本の新しい農業が生まれるの
だ」と強引に事を進めるリーダーが求められている。
反原発で頭がおかしくなっている純ちゃんみたいなキャラ、HISの澤田と
かSBの孫、ユニクロの柳井・・・トランプやプーチン、高杉晋作、西郷
翁、大村益次郎、後藤新平みたいな剛腕、鉄腕、辣腕、泣く子も黙る士、
非常のときの非常の人、泣いて馬謖を斬るくらいの非情の人でないと地方
再生、郊外の街の発展などはできないだろう。
まずは東北全体を農業特区にしてはどうだろう。
ま、以上はキチ〇イの思い付きで、日本の農業どころか自分自身のことさ
え持て余しているのだ。まったくウンザリするほど悩ましい。晴れたり
曇ったりで躁鬱を繰り返す発狂亭“揺れまくり”雀庵の病棟日記から。
【2017/1/28】土曜日、快晴。
*9:50〜10:50、山すそを多分、最後の散歩。二度と入院したくない。
酒を止め続けるしかない。一升瓶換算で6000本飲んだのだから「もういい
や」と思う一方で、「せめてコップ1杯ぐらいなら」と思う心もある。こ
の1杯が命取りになるのだが、「分かっちゃいるけどやめられない」のが
人間であり、煩悩だから、よほど気張らないと悲惨な晩年になる。これは
確かだ。
あな怖ろしや、一度アル中、一生アル中、今が年貢の納め時だが・・・
「別れても好きな人」ああ・・・未練タラタラ・・・
散歩の山中でオレンジ色のベストを着た老人2人と出会い、話を聞いたと
ころ、この辺は猿の被害が多く、「今の時期は大根や白菜がやられる」と
のこと。
――猟友会では撃たないんですか?
「同じヒト目だし、昔から猿は物語にもいっぱい登場するし・・・桃太郎
の鬼退治とか・・・身近過ぎるので猟友会は昔から猿を撃たないよ、嫌がる」
――この冬は秋からのいい天気が続いているから、山にはエサが十分あるん
じゃないですか?
「ドングリや椎の実なんかエサになるものは、天気が良ければ豊作という
わけではなく、波があるのよ。それに猿はゴミをあさって『人間の残飯は
旨い』と知っちゃったから山から下りてくる」
――どうやって駆除するんですか?
「捕まえた猿は発信機をつけて放してあり、群が麓に近づくのが分かるよ
うにしている。近づかないようにパンパンパンと音を立てて追い返すわけ
だ、云々」
猿蟹合戦ならぬ猿ヒト合戦だ。猿は生き残りと子育てで必死。猿が増えす
ぎたというのは人の勝手過ぎるだろうが、食物連鎖で言えば、猿を食べな
かったのは正しかったのかどうか。
猿を食べる民族はそこそこあるだろう。支那では脳ミソを食べるし、南シ
ナ海あたりの島民はカレーなどにして猿肉を珍味として食べるとか。「猿
の丸焼きにはさすがに手が出なかった」という話を読んだことがあるが、
形が人に似すぎているからだろう。
アマゾン流域では昔(1960年頃)は猿を見つけるとやたらと銃撃したが、
これは害獣駆除のためで、つまり人間と猿は縄張りを争っているわけだ。
今は寿司や刺身は世界中へ広まりつつあるが、40年前は米国でもそれは少
数派のセレブに“ヘルシー”と支持されていたものの、一般には敬遠されて
いた。その頃西海岸の人から「ウナギはどんな味か?」と聞かれたことが
ある。ウナギ≒ヘビ≒ゲテモノと思われていたようだが、今やかば焼きは世
界中に広まりつつあるのではないか(修一:アナゴのように主に寿司ネタ
として普及)。
*13:00、K来、退院手続きで会計や薬をもらったり、Dr.、ケースワー
カー、ナースからアドバイスを受けたりしてようやく15:00退院、病院発。
ここまでは良かったが、車内でKはノンストップであーだこーだ言うの
で、「脳ミソが回復していないので今は考えられない」と答えたら静かに
してくれた。
海老名SAで小休止し16:10、帰宅。3か月ぶりで、まるで他人の家みた
い。小生の隠居所になった3Fの15畳間はきれいに片付いており、PCは使え
るようになっていた。「頂門」渡部氏と学友のSAM、先輩のTOMYから安否
を問うメールが来ていたので退院を伝えた。
どっさりの洗濯物を洗って干し、ボーゼンとして過ごした。
【1/29】日曜日、快晴。わが部屋は隠居所、避難所、隠れ家、引きこもり
部屋というよりもリトリート、リゾートと考えた方がいいだろう。荷物を
整理したり、部屋を使い勝手がいいようにしたり、散歩したり。
散歩中に「責めるより 許す心と 思いやり」というスローガンを見つけ
た。「うん、その通りだ」と思ったが、これは非行少年/触法少年の再生
を願うスローガンで、非行老人向けではなかった。小生は見捨てられては
いないから大いに恵まれているのだろうが、これからのことはどうなるの
か、全然分からない。
夕食は退院祝いで孫・子も集合し、オデン、稲荷寿司、刺身、サラダな
ど。Dr.、カウンセラーの教えに従って謝罪と感謝の挨拶をすると、皆は
納得したようだ。退院時にナースの“女帝”が「女はね、文書で書いても通
じないの。言葉で言わなきゃダメよ」と言っていたが、その通りで、皆は
小生の挨拶にうなづいていた。何か嫌な予感が・・・
【1/30】月曜日、快晴。夕べは就寝中に下痢、パッドをしていたので良
かったが、体調は相変わらずパッとしない。
心の整理がつかず、入院中の書類、メモ、日記類を整理する。近く「頂
門」渡部氏に新シリーズの掲載をお願いしよう。
・・・
<読者諸兄姉の皆さまへ>
本シリーズの第1章「病棟編」はこれでひとまず終わりです。一般的には
見聞する機会のない精神病棟での日々をざっくりスケッチしただけのもの
ですが、「ふーん、こんなものか」と分かってもらえれば幸甚です。
今年も大学センター試験が終わりましたが、早朝に17歳の青年が病棟から
試験会場へ向かっていました。小生はほぼなすべきことは終え、今はロス
タイム消化状態ですが、青年はこれからの人です。精神病が残酷なのは完
治しないことです。いつ再発症するか分からない。大丈夫だと思っている
と道が陥没して転落したりする・・・患者の多くはいつも不安に思ってい
るでしょう。
再入院する人は70%ほどではないかと思います。早い人は1か月で出戻
り、3か月、6か月で戻る人は珍しくありません。患者は「また来たよ」と
躁状態の人(働き盛り、40前後の男が多い)もおり、知り合いと久闊を叙
したり、わが家(落ち着ける場所)に帰ってきて安心しているような感じ
の人もいますが、大体は「また来てしまった」と、自信喪失でしおれてい
る人が、特に年配の女性には目立ちます。
ナースも「また来たの!?」という顔つき、雰囲気で、「こんなに悪化す
る前に外来で治療しなけりゃダメよ」などと言いつつ、なんとなく「もう
しょうがないわね」と結構優しく受け入れています。
市民社会、さらに家族から見離される患者は多いでしょう。身体障碍者へ
の社会的理解は進んでいるようですが、精神障碍者/患者へのそれはあま
り進んではいないようです。小生には静かな環境、作業療法、臨床心理士
によるカウンセリング、薬がとても有効ですが、“見えない病気”なので
「これぞ」という治療法や社会的受け皿は進んでいないように思われます。
作業療法では、軽度の言語・知的障碍の山下清画伯が得意とした「ちぎり
紙細工」がとても人気のようで、毎月、グループで大作を発表、展示して
います。ビックリするほどの芸術作品もあり、なぜだろうと考えたのです
が、貼り絵/油絵は「やり直しが効く」のです。人生はやり直しがなかな
かできない。それを癒すために患者は貼り絵/油絵に没頭するのかもしれ
ない。ゴッホが自死の1年前あたりから膨大な作品を描いたのはそういう
ことだったのかなあなどと思っています。
次回から本シリーズは第2章「政治経済社会編」になり、病棟で考えたそ
の分野のことを綴っていきたいと思います。テーマの多くは産経新聞に刺
激されたもので、ちょうどトランプ氏が大統領に選出される時期を挟んで
いますので、書いていてとても興奮しました。結構、普遍的な「正論」で
はないかと自分では思っていますが、他者から見れば「キチ〇イの妄想」
かもしれません。
英キャメロン、仏オランドが消え、独メルケルは失速、習近平は軍を掌握
できずイライラ状態・・・歴史の大きな転換点を実感します。
引き続きお目通しをお願い申し上げます。(つづく)2018/1/19
2018年01月30日
◆「措置入院」 精神病棟の日々(84)
at 09:00
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