2018年02月15日

◆拉致:朝鮮半島の闇、日本の闇 第1章

“シーチン”修一 2.0

【措置入院」精神病棟の日々(92)】2月11日は「紀元節」、今の呼称で
「建国記念(の)日」だが、明治に制定された。

<神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とあり、そ
の即位月日を明治に入り新暦に換算した日付(が2/11)である。

1873年(明治6年)に、2月11日は、日本国の建国の日として「紀元節」と
定められたが、戦後の1948年(昭和23)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止され
た。その後、復活の動きが高まり、「建国記念の日」として、1966年(昭
和41)に国民の祝日となり翌年から適用された。

なお、神武天皇は、古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存したと
あるが、現在の歴史学では、考古学上の確証が提示されていないこと、ま
た古事記や日本書紀のその神話的な内容から、神武天皇が実在した人物か
も含めて、その筋書きをそのままの史実であるとは考えられていない>
(WIKI)

神武天皇などが活躍した当時は「春と夏で1年、秋と冬で1年」だったとい
う説があり、これに倣えば神武天皇は60代で没。それでも当時としては長
寿だろうが、不自然ではない。

神武東征というのは、西日本の諸部族を平定した勢力が東へと押し出し、
諸部族に「仲間になるか、それとも戦で決着するか」と迫り、兵力を増や
しながら東進して紀元前660年1月1日 (旧暦)に建国を宣言した、というこ
とだろう。

塩野七海氏は「(ローマの建国神話には、ローマの始祖は狼が乳を与えた
双子だとあるが)神話は史実かどうかはさておき、国民がその物語を受
容、共有することに意味があるのだ」と書いているが、多くの日本人は、
というか少なくとも小生は「神話時代はともかくも2000年は日本という国
が連綿として続いている。世界史の奇跡ではないか」と誇りに思う。

万世一系、代々の天皇が直接的あるいは間接的であれトップに君臨し(初
期設定)、諸勢力の争いがあってもそれを超越して泰然自若としてあり続
けるというシステム(OS)を編み出したのはすごいし、それを国民(ユー
ザー)が支持し続けたというのもすごい。(温度差はあっても、少なくと
も「大黒柱とか心棒とか、受け皿とか、ないよりはあったほうがいいよ
ね」とは思っているだろう)

喜びも 悲しみもともに 2千有余年 陽射しのごとく 天地育む(修一)

前回「バカチョ〇」に触れたが、小生が小学生の昭和30年代でもわが街の
多摩川の土手の街側には朝鮮人集落があった。不法占拠だ。小学校には朝
鮮人も通っていたと思う。僕らは下校途中で「チョーセ〇人はカーワイ
ソ、地震のためにおうちはペッチャンコ」と声を張り上げたことがしばし
ばあった(関東大震災で生まれた言葉らしい)。チョーセ〇人の子はケン
カが強いと、子供たちからは敬遠されていた。

川崎市から最後の朝鮮人集落が撤去されたのは20年ほど前で、高額な補償
金に市民は「なんなんや、泥棒に追い銭かいな」と大いに困惑したもの
だ。今はマンションが建てられているが、集落の人が優先的に入居してい
るのかもしれない。

日本の敗戦で朝鮮半島には2つの国ができた。大韓民国(1948年8月15日
樹立、通称韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(1948年9月9日樹立、通称北
朝鮮)だ。

その3年前の1945年8月には日本の敗戦が決まったのだが、半島では連合国
の意向でしばらくは「連合国による暫定統治」、実質的には日本の統治
(行政機構の運用)が続いていた。

連合国は「朝鮮人は国家統治の経験、能力に欠けるから、日本による統治
をしばらくは続けざるを得ない」という判断だったのだろう。ソフトラン
ディングを狙ったわけだ。

日本でも占領下におかれてはいたものの天皇制と日本政府は存続し、ソフ
トランディングが進められたが、食糧難他いろいろな困難があり、その一
つには、日本が朝鮮半島の主権を放棄すると、敗戦国民でも勝戦国民でも
ない“第三国人”の在日朝鮮人の法的立場が曖昧になってしまったこともある。

このために戦後は朝鮮人が暴れまくった。政府も警察も国内法で彼らを制
圧していいのかどうか、ひるんでいたようだ。何しろ国家主権のない占領
下なのだから。

朝鮮人はやりたい放題。駅前の一等地の不法占拠、警察署襲撃・・・怖い
ものなしだ。

小生の大学時代の友人、石館君は卒業後に中国新聞社に就職したが、彼が
よく言っていたのは「日本中で朝鮮もんが暴れまくったが、広島でも警察
は役に立たず、代わりにヤクザが朝鮮もんを押さえ込んだやで」。WIKIから。

<『仁義なき戦い』は、日本のノンフィクション。作者は飯干晃一。本作
は戦後の広島県で実際に起こった広島抗争を、当事者の1人である美能幸
三の手記に飯干が解説を加えた作品。

美能幸三が獄中で書き綴った手記をベースに、飯干晃一が1972年(昭和
47)「週刊サンケイ」5月26日号から連載したノンフィクション。原作は
半分近くを美能の手記を引用しており、戦後の実際に起こった広島抗争
で、当事者の1人である美能の手記をベースに、飯干が補筆し当時の状況
を解説した内容が掲載されており、出版し続けている会社もドキュメント
として本書を紹介している。

団体・人名・地名も全て実名で載っており、手記と解説が一対になり、事
件や行事ごと、広島抗争が時系列に沿って進む。「週刊サンケイ」で連載
が開始されると圧倒的な人気で、印刷所ではゲラ(校正用の試し刷るり)
の奪い合いになったという。

獄中手記を美能が執筆した原動力は、1965年(昭和40)に中国新聞報道部
記者である今中瓦が『文藝春秋』4月号に執筆した「暴力と戦った中国新
聞 ― 菊池寛賞に輝く新聞記者魂 "勝利の記録"」という記事への反論から
であった。網走刑務所で服役中だった美能が、たまたま雑誌でこの記事を
見つけた。なつかしくて飛びついて読んだというが、読むと10日間メシが
食えない程腹が立った。

ケンカの張本人が自分と決めつけられている上、身に覚えのないことまで
書かれている。"美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を
交わした"、"破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた"という記
述など。特に美能は "打越会に助けを求めた"という部分にプライドを傷
つけられた。

「助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙って
はいられない。ウソを書かれて悔しい」と翌日から舎房の机にかじり付い
た美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、マスコミに対する怨念を込
め、7年間にわたり総計700枚の手記を書き上げた。手記は汚名返上の執念
が書かせたものであった。

このため廻りまわって「週刊サンケイ」から連載が決定した時、"登場人
物を全て実名で掲載すること" を連載の条件に付けた。実名を出せばトラ
ブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので「実名
でなければ断る」と頑なであったという。「週刊サンケイ」の矢村隆編集
部次長が、掲載許可を取り付けるため、美能と会ったのは、1971年の秋、
東京のホテル。

美能は無関係の第三者に読ませるつもりはなかったが、5度目の交渉で首
を縦に振った。この時の条件が前記の登場人物の実名掲載であった。矢村
が編集長と相談し、条件を飲んで正式に打診した。現在とは社会背景も大
きく違うとはいえ、当時『仁義なき戦い』が実名のまま世に出たことは、
まさに驚愕に値する。「週刊サンケイ」の担当者は、数多くの恫喝をヤク
ザから受けたといわれる>

毒を以て毒を制す、江戸時代からの伝統で、ヤクザがチンピラの乱暴狼藉
を押さえ込んで、配下にするわけ。飯岡助五郎のように十手を持った親分
はゴロゴロしていたのではないか。今、ヤクザが弱体化しているために半
グレというチンピラが増えているとか。

こういう経緯もあってヤクザには朝鮮人、朝鮮系が多いのだろう。暴れん
坊を押さえつけてしつけられるのはジャイアンしかいない。

小生は警察の組織犯罪対策部(通称「〇暴/マルボウ」)のデカに若かり
し頃、睨みつけられたことや、彼らの忘年会を近くで眺めたことがある
が、ヤクザと誼(よしみ)を通じて情報を得るのも〇暴の大事な仕事だか
ら、顔つき、しぐさ、服装はほとんどヤクザだった。見分けがつかないと
いうか、ヤクザ以上にヤクザらしかった。ジャケットは寅さん風に肩にか
けただけで周囲を睥睨するように歩くさまは、まるで菅原文太。

健さんもかっこよかったが文太もえかったで。

「男が世に立つ以上は、人の風下に立ったらいけん。一度舐められたら、
終生取り返しがつかんのがこの世間いうもんよ、のう。ましてや侠客渡世
ならなおさらじゃ。時には命を張ってでもという性根がなけりゃ親分とい
われるような男にはなれんわね・・・

最後じゃけん、云うとったるがよ、狙われるもんより狙うもんの方が強い
んじゃ、そがな考えしとったら、スキができるど」

文太は東映労組のボスだったが、労組は大体がアカとの親和性が高い(ソ
連の映画や舞台芸術に憧れたりする)。戦後の混乱は戦後動乱、戦後革命
(内乱を革命へ転化せよ!)の絶好の機会でもあるからアカは占領軍を
「解放軍」と言って大喜びしていた。

日共こと「コミンテルン日本支部」の宮本顕治(通称ミヤケン)は戦前の
1934/昭和9年にリンチ事件で“同志”を殺しており、殺人犯として刑務所
(ほとんど温暖な東京)暮らしだったが(大物だから待遇はいいし、セレ
ブのカミサン、百合子が仕出し屋に毎日弁当を届けさせたから多分、麦
シャリはほとんど食べなかったのではないか)終戦で釈放された。思想
犯、政治犯ではない「ただの人殺し」なのにGHQは間違って釈放したのだ
ろう。

小生はミヤケンに義理も恩も恨みもないが、スパイ容疑で“同志”を査問中
に“同志”が逃げ出そうとするのを柔道が得意のミヤケンが体固めで締め付
けたら「死んじゃった、どないしょ!?」という、まあ事故死的な面が
あったようだ。今ならミヤケンは暴行傷害致死あたりだろうから、「殺人
犯」とまでは言えないかもしれない。

ミヤケンは今の日共の始祖みたいな感じだが(要は権力闘争に勝ったわ
け)、彼がいなければ日共の歴史はずいぶん違ったものになっていたろう。

上意下達で党内議論を認めないという党内の空気は彼が作ったのではない
か。関東大震災の前年、1922年の結党から間もなく100年を迎えようとし
ているのに、革命の「か」の字もできずに「確かな野党」に甘んじてい
る。政権を取るなんてとっくに放棄しており、日共一筋、2代、3代の赤い
血筋が評価される世襲制の利権集団でしかないようだ。北朝鮮そっくり。

「任侠」同様に戦後の「日共」にも多くの朝鮮人がいた。以下はサイト
「日本共産党の正体」から。(2005年の記事らしいが、初出媒体、著者=
林玲の詳細は不明。2003年に日共を追放されたNO.4の筆坂秀世あたりが書
いたのではないか)

<「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話 ジャーナリスト
 林 玲

【5月25日、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が、創立50周年を迎え
た。北朝鮮を支持する在日団体として、何かと話題になることが多いが、
かつての日本共産党との深い関わりを知る人は少ない。日本革命を共に目
指した在日朝鮮人のコミュニストの多くが、総連結成に参加したのであ
る。党史から抹殺された秘話をジャーナリスト林玲氏がレポートする】

今では党史のどこにも書かれておらず、すっかり忘れ去られているが、実
は日本共産党は戦前から戦後にかけて、在日朝鮮人と共に歩み、大いに助
けられた。

共産党と在日朝鮮人の関係を辿ってみよう。

1922年(大正11)の創立時から、共産党は植民地解放の方針に基づき、朝
鮮の独立を綱領に掲げた。コミンテルン(共産主義インターナショナル)
の方針で、1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は、日本共産党に
所属した。ちょうど在米中の片山潜がアメリカ共産党に所属し、在仏中の
ホー・チミンやトウ小平がフランス共産党に入党したのと同じである。

戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、
共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931
年(昭和6)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めて
いた。

1945年(昭和20)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務
所を出獄した。その際、<歓迎 出獄戦士 万歳>の幔幕を掲げ、熱狂的
に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。その後、催された歓迎大会の会
場を設営したのもまた朝鮮人党員である。彼らが待ちわびていたのは、獄
中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は在日朝鮮人から圧倒的な
支持を集めていた、云々>(以上)

金天海はその後、北へ行ってから消息はぷっつり絶えた。処刑されたのだ
ろう。

反社会的なヤクザ組織や、共産主義革命を目指す日共、北の出先機関であ
る朝鮮総連に多くの朝鮮人がいる。つまり政府や警察の監視対象であり、
今でもそれは変わらないだろう。何があったのか、次回も闇を覗いてみよう。

天気が良くても風が冷たく、風邪の再発を恐れて外で遊べず、終日PCに向
かうしかない孤独な(Kは友達とスーパー銭湯1泊)発狂亭“ファルコンア
ロー”雀庵の病棟日記から。格闘技には、一歩間違えると「自滅技」にな
りかねないものも多いが、総じてこの世はそういうものかもしれない。わ
しゃ、自滅の連続だあ!

【2016/12/9】金曜、快晴。

*産経から。榊原英資「正論 統合危うくする反EUの歯車」、曰く――

<戦後、統合と経済の自由化が進んできたが、再び主権国家への回帰、保
護主義化が進んできている。リベラリズムや寛容な態度でまとめて一つの
ヨーロッパをつくり上げたのがEUであり、確かに難民などの問題を生んで
しまったのだが、その理念に立ち返るときではないか。

日本は自由化の流れを止めない、保護主義を食い止めるという、グローバ
リゼーション=GLBのリーダーシップを取るべきだ>

GLBとは、国境をなくす or フェンスを低くし、ヒト、モノ、カネができ
るだけ自由に動けるようにすることだ。それにより経済は活性化し、夢と
希望にあふれ、自由化=〇、保護主義=×だった。

日本で派遣労働が認められたころ、識者は「年功序列、終身雇用という労
働市場の固定は不合理だ。企業は必要な時に必要な労働力を求めており、
労働市場の流動化は進めるべきであり、生産性向上に繋がる」と主張して
いた。

どうなったか。結局は非正規雇用が急増し、多くの労働者の収入も減った。

モノとカネの流動化は、賃金の安い後進国、中共など新興国への工場移
転=国内製造業の衰退、産業空洞化、失業率の上昇、景気悪化を招き、
「就職氷河期」などと言われた。

米国ではGLBにより「早く儲かればよし」とする風潮に一層拍車がかか
り、自動車の街デトロイトをはじめ中部の製造業都市は軒並み空洞化にに
より壊滅的打撃を受け、今やラストベルト(鉄サビ地帯)と呼ばれるよう
になってしまった。

EUには移民、難民モドキが押し寄せ、低賃金化、既存労働者の解雇が進ん
だ。英国のEU離脱、欧州全体での“極右”の台頭、米国のトランプ勝利は、
明らかにGLBの大失敗を示しているのではないか。

globalization という造語以前は globalism と言っていたが、後者は孤
立主義に対する言葉で、「世界的干渉主義」の意だった。国家、国民、民
族、人種にはそれぞれの歴史、伝統、文化、成り立ち、価値観がある。国
家主権とは、「アナタはアナタ、オレはオレの道を行く」ということで、
タガをはめるのなら国連、WTOあたりでいいものを、言うことを聞かなけ
れば「村八分にするぞ」と干渉しまくり、脅かし続ければ、アカモドキの
EU真理教から皆が目覚めてくる、「うちらの主権どないなっているんや」と。

榊原などリベラル≒アカモドキは、どうせ東大出て大蔵省か外務省の官僚
を務めたバカだろう。お花畑の邪論、愚論、暴論、詐論、偽論のどこが
「正論」なのか。読者はこの手の妄言を読むためにカネを払っているので
はない。編集者はよくよく反省すべし。(つづく)2018/2/13

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