2018年03月12日

◆木津川だより 浄瑠璃寺(1)

白井 繁夫


大和と山城国の国境(京都府の最南端)の奈良山丘陵地の山間の地(当尾:とうのお)に、
「小田原山浄瑠璃寺」(木津川市加茂町西小)通称「九体寺」と呼ばれる寺院があります。この寺が「九体の国宝阿弥陀仏」を本尊として祀る、我国で唯一の寺院です。

この寺院へ行く道は、古来より東大寺の転害門(てがいもん)から般若寺を経て笠置街道を採る「般若坂越え」、つまり南から北方へのルートと北の京から南方へ木津川を遡行して加茂道の高田より丘陵を登って南の西小(にしお:西小田原)の集落へ行く道とがありました。(私は浄瑠璃口から南へ約2kmの登りの山道、浄瑠璃寺正門(北門)へ出る道を採りました)。

あまり車や人と出会わない山道を歩きやっと小さく開けた集落に着くと、無人のスタンドには農家の野菜や柿や芋があり、子供時代の遠い昔ののどかな雰囲気に浸っていた時、一時間に一本?のバスが到着し、行楽客?の一団の賑やかな会話となり、そのご一行様は三々五々静かに佇む寺院に吸い込まれて行きました。

「浄瑠璃寺」の創建は不明ですが、嘗ては西小田原寺とも云われ、天平11年(739)
聖武天皇の勅願により僧行基が開創したとか、また天元年中(978−983)多田満仲が開いたとも伝えられていますが、どちらも史料などによる正確な確証は得られていません。

浄瑠璃寺の創建、堂塔の建造.修理、法会(ほうえ)等や施行年などにつてのこの寺院の唯一の根本史料『浄瑠璃寺流記事』、観応元年(1350)寺僧長算(ちょうさん)が、当寺の釈迦院に蔵されていた本をもとに転写し、「釈迦院本の流記、貞和2年(1346)までと観応元年までを加筆、さらに末尾に15世紀の記事二つを長算が付け加えた史料(永承2年:1047〜文明7年:1475)」があります。

以後『流記事:るきのこと』と云う、を参照します。

「浄瑠璃寺」の創建は、永承2年(1047)7月18日義明(ぎみょう)上人を本願とし、
阿知山大夫重頼を檀那として本堂を造立しました。(一日で屋根を葺くと記しているから、最初は小さい本堂と推察されます。)

平安時代の後期になると、釈迦の入滅後、しだいに仏法が廃れ「永承7年(1052)末法の世に入る」と云う、「末法思想」が蔓延しました。この世を救いに来る薬師如来の信仰と現世を捨てて、極楽浄土に往生を遂げようとする「浄土信仰」も高まりを見せ、大和に近いこの山間に、興福寺の一部の僧達が、草庵を建て、修行に励み、教学にも精励しました。

60年後の嘉承2年(1107)正月11日、本仏(薬師如来像)などを西堂に移します。(本尊の移動は本堂を取り壊すため)。

「浄瑠璃寺」は、寺名となる薬師如来が最初の本仏です。一体の木造薬師如来像が当初からこの寺に伝わっており、薬師如来はこの仏の浄土である東方の瑠璃光(るりこう)浄土からの教主であり、この世の苦悩を救い、西方の極楽浄土の阿弥陀仏(来迎仏)へバトンタッチする遺送仏でもありました。

新本堂の建設には約1年半を費やし、翌3年6月23日総供養が導師迎接房経源(ごうしょうぼうきょうげん)、願主阿波公公深で執り行われました。

この時の九体の阿弥陀仏像が当寺院の本尊仏となりました。ただし、この新本堂(九体阿弥陀堂)は現在の場所ではなくて、九体阿弥陀堂と安置の国宝の仏像等はこれより50年後(保元2年1157)に現在の池の西岸に移築されました。

12世紀後半から13世紀にかけては浄瑠璃寺の寺勢が最も隆盛な時代でした。即ち、久安3年(1147)摂政藤原忠道の第1子の伊豆僧正恵信(えしん)の入寺から始まります。

興福寺一乗院門跡であった恵信は、興福寺別当職就任を覚晴に先に越されたのを不満に思い、この山中の小寺に入山して、当寺の延観上人の草庵に隠棲しました。

その後は恵信の力を持って、まず寺域の境界(四至:しいし)を定め、現在の伽藍の中心となっている苑池の原型を整え、浄瑠璃寺一山の守護とするべく、一乗院の法橋信実.寺主玄実父子の墓を寺内に築かせて、(後日)当寺は一乗院の御祈願所となり、興福寺末となりました。

恵信は、保元2年10月興福寺別当に補任されており、本堂を解体して現在の池の西岸に移築した年でもあります。現在見られる浄瑠璃寺の景観は恵信の時代、基本的に完成しました。

九体阿弥陀堂と浄土庭園の一体化を目指し、治承2年(1178)には京都の一条大宮から三重塔を移築して、公式どおりの東に薬師如来の三重塔、池を挟んで西に九体阿弥陀堂の浄土庭園を完成させ、堂宇や多数の仏像も造立されました。

これら一連の大事業は興福寺別当に就任した恵信が浄瑠璃寺に関りがあって尚且つ、摂関家の力を持ってはじめて可能にした大事業だったと思われます。

治承2年には鐘楼も建立され、翌年の11月には三重塔の完成供養を一印上人空心が法会の導師となって執り行われた。(空心上人は九条兼実:摂政関白.太政大臣.九条家の祖:に寺額を依頼できる実力者です)。現在の伽藍の中心である九体阿弥陀堂.苑池.三重塔がそろった輪奐の美が平安時代の末期にここに完成しました。

12世紀末の文治4年(1188)藤原氏の氏神「春日大明神」を請け鎮守とする。『春日大社文書』によると、当時山内には「凡(およそ)当山の住僧僅に80に及ぶ」とあり、80人の住侶を統制して行く組織が浄瑠璃寺では形成されていたと思われます。

鎌倉時代以降の浄瑠璃寺について、『流記事』より少し列挙してみます。

★ 建久5年(1194)〜元久2年(1205)舎利講と一品経(いっぽんきょう)購読を
一千日つづけた勤修を4度おこなう。
★ 建仁3年(1203)2月楼門.経蔵を上棟、貞慶を導師とし、千基塔供養を行う。
★ 建暦2年(1212)薬師如来像に帳を懸ける。吉祥天立像(重文)を本堂に祀る。
★ 仁治2年(1241)馬頭観音立像(重文)造立される。(体内墨書銘)
★ 永仁4年(1296)弁財天像を勧請す。
★ 応長元年(1311)護摩堂を建立。本尊不動明王、二童子像を安置す。
★ 観応元年(1350)9月『浄瑠璃寺流記事』長算によって書写される。

皇族や平安貴族が極楽浄土へ往生出来るように九体の阿弥陀仏を祀る、浄土信仰が隆盛な時期に藤原道長の法成寺(無量寿院)や、白河天皇の法勝寺阿弥陀堂など京都を中心に九体阿弥陀堂が約30建立されましたが、現在当時のまま現存している唯一の寺院がここの「浄瑠璃寺」だけになりました。

寺院の来歴説明が長くなり過ぎました。山内の国宝三重塔、国宝の九体阿弥陀堂.阿弥陀仏像の参拝は、次回にさせてもらいます。

参考資料:浄瑠璃寺と南山城の寺    日本の古寺美術 18    保育社
     加茂町史          古代.中世編         加茂町

                          (郷土愛好家)
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