2007年06月26日

◆スーパースパイの末路


                    渡部亮次郎

1985(昭和60)年、中国国家安全部対米国情報工作の当時の総責任者、北米情報司の司長、外事局の主任だった兪強生は、米国に政治亡命した。兪強生が政治亡命した動機は不明だが、両親が受けた迫害と関連していると見られる。

兪強生の父親は、中国共産党の最高指導部のメンバーで、共産党の政権確立後、天津市の初代市長を務めた黄敬(本名、兪啓威)。その母親範瑾も、北京市副市長や共産党機関紙「北京日報」の社長などを務めていた。

ところが1960年代に始まった「文化大革命」で、両親がともに「粛清」の対象となり、迫害を受け、父親が死亡、母親も危うく命を落とすところだった。

この中共の北米情報司司長が米国政府に亡命した際、金無怠という「1981年に定年退職するまでに、CIAの「頼れる」中国通として、米国東アジア政策研究室の主任などを歴任、米国政府の対中国政策の制定に研究報告を提供していた人物」。その金無怠が実は対米スパイだという証拠を兪強生は手土産として米当局に提供した。

その直後に、FBI(米国連邦調査局)が金無怠を逮捕、中国当局のスパイとして起訴した。

金無怠は1922(大正11)年北京生まれで、燕京大学新聞学部を卒業、1938(昭和13)年に駐上海米国領事館の通訳となったが、一方で1944(昭和19)年に当時の周恩来首相に認められ、中共のスパイとなった。もちろん米国側には極秘である。

1949(昭和24)年、駐香港の米国総領事館に転勤、1952(昭和27)年に米国中央情報局(CIA)に配属され沖縄でCIAの対外国ラジオ情報機構に在籍していた。


このころ、金無怠は当時の台湾の人気アナウンサー周謹予と結婚し、1965(昭和40)年に米国国籍を取得した。1981(昭和56)年に定年退職するまでに、金無怠はCIAの「頼れる」中国通として、米国東アジア政策研究室の主任などを歴任、米国政府の対中国政策の制定に研究報告を提供していた。

退職後に、在職中の「功績」が評価され、CIAの表彰までに受けた、1985年にスパイの身分が割れるまでCIAの顧問を務め続けた。

兪強生が米国に提供した証拠には、金無怠が中国国家安全局での略称や通信証拠などが含まれている。これらの証拠を前に、金無怠は中共のスパイだったことを認め、一部の情報提供を自供せざるを得なかった。

金無怠が非常に優れたスパイ素質の持ち主で、逮捕されるまでに、数十年間生活を共にしてきた台湾人妻は、夫は中国当局のスパイであることにまったく気づかなかったという。

また、「中国当局側でも、このスーパースパイが提供した米国情報に触れられる幹部はわずか数十人しかいない上、金無怠の本当の姿を知る人はさらに限られていた。

兪強生のような中共の情報局の高官から本件が明かされなければ、恐らく真相は永遠に闇に包まれたであろう。

当時、中国当局の最高指導部の高官・兪強生が米国に亡命したことよりも、米国CIAのエリート幹部が中国当局のスパイであることが、世界に強い衝撃を与えた。

中共のスパイと認めた後、1986年2月、米国裁判所は金無怠に対し17の罪が成立すると判定した。一方、金無怠本人は中国当局に対し、旧ソ連が米国と情報部員の人質交換をしたように助けを求めた。

その間、中国語新聞の取材を受けた際に、彼は、中国当局に監禁されている民主活動家・魏京生氏との身柄交換を望んでいると明らかにした。(魏京生氏は依然、滞米中であり、2007年6月に日本に立ち寄りを拒否されて話題になった)。

しかし、最後の助け舟を求めている金無怠に対し、中国外交部の当時の報道官・李肇星氏は記者会見で、冷酷に切り捨てた。

「金無怠事件は、米国の反中国勢力が捏造した寸劇。中国政府は従来から平和を愛するため、米国に一切スパイを派遣していない。中国政府はこの事件を絶対に認めない。この自称中国スパイである金無怠という人物をまったく知らない」と完全否定し、突き放したのだ。

米国裁判所の最終判決が下される直前の1986(昭和61)年2月21日、金無怠は完全に絶望し、米国バージニア州の刑務所で、ビニール袋を頭から被り、靴紐で首を絞め、自殺した。63歳だった。中国当局のスーパースパイは、このよう形で人生の幕を閉じた。日本では中曽根内閣の頃。新聞には報じられなかった。

当時の米国陪審団が、金無怠のスパイ活動の内容は主に以下であると結論付けた。

@朝鮮戦争中に、国連通訳の身分を利用して、中国当局に捕虜の収監場所を知らせ、米国の作戦計画を遅らせることに成功。

A1960年代、中国当局に米国の対中国政策の情報を提供し、米中両国の外交交渉において、中国に優位な立場に立たせた。

特に、米中が外交関係を回復する過程で、金無怠は当時のニクソン米国大統領が中国との国交回復を望んでいるとの情報を掴み、中国当局に流した。結果、米国が中国当局との関連交渉中に、多くの重大な譲歩が引き出せた。

この時期はソビエトからの離脱を決断した毛沢東が「敵の敵は味方」との見地から、以後はアメリカや日本との接近の画策し始めた時期であり、特に大国アメリカの対中方針が明かされた事は大成果だったはずだ。

同様、国交回復前の日本の実情と政府の真意を中共に密かに通報していた大和人金無怠は居なかったのだろうか。

Bベトナム戦争期間中に、中国とベトナム両国に米国政府の対べトナム政策などを知らせた。戦争の発動や、戦争の終結などの情報も含まれている。

金無怠スパイ事件を通して、米国CIAは、国家安全上、中国の直接かつ現実的な脅威を認識した。金無怠は事件発覚後、CIAの安全管理が非常に緩んでおり、機密情報を得るのにそれほど難しくないと語ったという。

また、金無怠が取調べで一貫としてスパイ活動の詳細な内容を自供しなかったため、本件による被害規模や中国当局のスパイ手段は依然外部に知られていない。

一部では、金無怠スパイ事件が米国にもたらした損失は計り知れず、その影響はそれまでに判明したスパイ案件の総計を超えているとの認識もある。

2005年、中国駐シドニー領事館の政治参事・陳用林氏が豪州政府に政治亡命した。陳氏が提供した資料や証言によると、中国当局は豪州を含め、世界各国に厖大なスパイ・ネットワークを構築している。

豪州だけでも、1,000人以上の工作員がいるという。同年、豪州で庇護申請をした天津国家安全局(中国当局の情報機構)の元幹部、●鳳軍(ハオ・フォンジュン)氏も、公に同様なことを証言した。(●…赤+おおざと)

金無怠スパイ事件は、当事者となる国々やスパイ本人に、中国のために長年身を捧げた者をあっさりと切り捨てる中国共産党の本質を認識させる1つの典型的な事例であると言える。「大紀元」(07/06/20 08:24)を再構成。
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