2018年05月19日

宮崎正弘

宮崎正弘


平成30年(2018年)5月18日(金曜日)通巻第5703号 

書評 呉座勇一『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)
樋泉克夫のコラ 「読者の声」ほか


書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIE  

 明智光秀の「本能寺の変」の真実は何処にあるのか
  黒幕説、陰謀説を徹底的に冷徹な論理で論破する打撃力

   ♪
呉座勇一『陰謀の日本中世史』(KADOKAWA)
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ベストセラーとなった『応仁の乱』の著者が書き下ろした新作で、従来
の歴史家が謎としてきた歴史の深奥部、アカデミズムからこぼれた人々が
書く陰謀論など、その俗説を次々と切り捨てる意欲的な作品で、こんどは
KADOKAWAが版元である。

6つのテーマに絞り込まれて、「足利尊氏は陰謀家か」「日野富子は悪
女か」「関が原は家康の陰謀だった?」など興味の尽きない話題が並ぶ。
本書の圧巻はなんといっても本能寺の変の重厚な考証である。

なにしろ昨今の歴史論壇も、根拠の薄い「陰謀論」ばやりである。古くは
ユダヤの陰謀論があるから、読書人の多くが、じつはこの類いが好きなの
であろう。しかし大概は真実を見ようともしないで、都合の良い事柄をつ
なぎ合わせて、一方的な想像と妄想で組み立てた論理破綻の類いが多い
(ちなみにユダヤ陰謀論に関しは評者も84年だったか、『ユダヤにこだ
わると世界が見えなくなる』という反論を書いたことがある。いずれ改定
版をだしたいものである)。

 ▼「野望説」と「怨恨説」の間違いは明瞭である

本能寺の変で明智光秀が行ったことは「野望」「怨念」説がこれまでの歴
史学では主流で、前者は高柳光壽、後者は桑田忠親と錚々たる歴史学者が
唱えた。諸説がこんがらがった糸を解きほぐしたのが徳富蘇峰だった。3

呉座氏は、まずこの3つを丁寧に反駁し、否定する。

明智光秀の野心を証拠立てるものがなく、高柳光壽は結局、「愛宕百韻」
が、それだとしたが、評者に言わしめると、「ときはいま、天が下知る五
月かな」の読み違えである。この点で「とき」を「土岐源氏」と読み、土
岐家再興がねらいだったという説もすこぶる怪しい。

怨念説は、桑田説から強力になるが、総じていえるのは光秀の過小評価か
ら、判断を間違えることになったのだろうと思われる。呉座氏も同意見で
ある。

俗説がおびただしくでたのは江戸時代である。第一級資料とはとても言え
ない、しかも事件から百年以上を経過しての歴史書から、適当な推量、妄
想の拡大が、とんでもない説を大量に世に送り出した。

そもそも明智を「主殺し」の裏切り者と決めつける印象操作を行ったのは
秀吉である。そのほうが横から信長政権を簒奪した、極悪人として評価さ
れることを恐れた秀吉が真実をぼやかし、嘘でゆがめる効果があったからだ。

したがって後世の後時江が多い『太閤記』に加えて、『信長紀』『信長公
記』が生まれ、これらによって、じつは信長への過大評価も同時になされ
たのである。

率直に言って織田信長への評価は著しく高い。

信長はそれほどの天才的軍略家でもなく、抜きんでた指導者としては、手
ぬかり、判断の甘さが目立つ武将である。とくに信長への過大評価を生ん
だのはイエズス会の報告書が最近全訳されたことも大きい。

 最近、こうした所論を比較検討しつつも、「いや、そうではない」、
「あれは義挙だ」と言い出したのは井尻千男と、小和田哲男である。
本署では、小和田の「信長非道阻止説」を取り上げて、かなり評価をして
いるが、井尻作品に関しては読んでいる形跡がない。

だから本書は裁判官が高みから所論を裁断したという印象はあるが、たい
した熱情を感じないのは、あまりに論理的で冷徹に走りすぎた観があるか
らだろう。


 ▼黒幕説が盛んなのは光秀の過小評価が原因だ

また黒幕説がこれほどまでに世間をにぎわせたことも珍しい。光秀を陰で
操っていたのは誰か、という推理ゲームの延長である。

黒幕説の嚆矢となったのは、結果的に一番得をしたのが秀吉だから、秀吉
が黒幕だった。ついで家康説がはびこったが、いずれも否定された。証拠
がないばかりか、時系列な事実比較を研究するだけでも、ありえないこと
がわかる。

黒幕説は朝廷説、足利説から、果ては毛利、長宗我部説となり、最近はキ
リスト教布教団、つまりイエズス会の陰謀だったという珍説まで飛び出し
た。いずれも荒唐無稽と切り捨てる。呉座氏は、これらひとつひとつを取
り上げながらも、それぞれを一撃のパンチで退けている。

ならば黒幕はいったい誰か。

いないのである。せいぜいが事前の連絡をほのめかしていた朝廷側近や公
家、武将はいたが本心を打ち明けた様子がない。親友の細川藤孝にさえ事
前の相談をしていない。というよりも、黒幕がいるという論拠は、光秀を
過小評価しているからだ。光秀ごときが、大それたことを単独でできるは
ずがないという推量をもとに論を広げる傾向がある。

政治の本質、その基本を確認すると、諸説の成り立ちに不安定要素が強す
ぎる。

▼檄文はまだ発見されていない。おそらく握りつぶされたのだ

以下は本書ではなく、評者の所論である。

第一に明智がもし天下を狙ったのであるなら、朋輩や仲間への打診、組織
化を怠るはずがない。ところが事前工作を展開した証拠はなにもない。

第二に明智が怨念を晴らした発作的行動だったと断定するには、これまた
証拠が何もなく、後年の江戸自体の資料は「作文」でしかない。

実際に亀岡城をでて京都を目指した光秀に従った主力は丹波兵である。臨
時の混成部隊でしかなかったのだ。

となると、残るは「義挙」という可能性だ。呉座氏はかならずしも、この
立場をとらないが、意外にも理解が深いとみられる。

大塩平八郎は血気に至る訴状を書いていた。それは伊豆代官が握りつぶし
たが、後年発見され、大塩の義挙の理由は判明した。

赤穂浪士の義挙については資料がありすぎて、説明の必要もない。

三島由紀夫は義挙の理由を「檄文」にしたため、当局が握りつぶすことを
おそれて知り合いの記者2人を呼んで、コピィをわたしていたほどに念を
入れた。

この点でいくと、明智は決起に至る理由を準備していない。いや、おそら
く檄文を準備したであろうが、秀吉が握りつぶしたと考えられる。

というわけで、本書の結論は「突発的単独説」であり、評者は、この立場
さえ疑っている。

明智は当時の環境から考えても、ほとんどが憂鬱で邪魔な存在だった信長
を乗り除くという義挙を、誰もが薄々期待し、しかし誰もが日和見主義に
たって、状況を傍観していた。一瞬の隙を捉えて立ち上がった光秀には、
北畠親房以来の天皇を守り抜く、すなわち国体を守るために、信長を仕留
めなければならないという歴史認識に立脚していた。

あくまでも「義挙」であり、それゆえに事前の工作も、事後の組織化もな
く、ライバルの来襲に備える情報網もいい加減に対応していたのである。

事件後の天下の青写真を光秀は描いていなかった。佐賀の乱も、神風連の
乱も、萩の乱も、秋月の乱も、そして西南戦争も、天下取りではなく、邪
な政道への抗議であり、その後にいかなる国家を建設するかというグラン
ドデザインがないという文脈においても、光秀の突発的行動は、どう考え
ても単発的義挙としか言いようがない。

事後の歴史の推移をみても、織田家臣団、遺族を除く周囲の武将で、秀吉
は立場上、悪評をまき散らし続けるが、光秀を恨んだものがほとんどいな
いという事実は何を意味するだろう。

徳川に至っては明智の幹部だった齋藤利三の娘を家光の乳母に採用して
いるし、信長が壊滅させた武田武士団から家康は大量の家臣を採用してい
るように、家康が光秀を恨んだり、あるいは主殺しとして遠ざけた気配が
ないのである。

▼明智光秀は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇のヒーローではないのか

ここで、呉座氏が無視した井尻千男『明智光秀 正統を護った武将』
(海竜社)を取り上げる。

井尻は正統とは何か、歴史とは本質的にいかなる存在か。なぜ正統なる価
値観が重要なのかを追求し、歴史と正面から向き合い、国家の自尊をもと
めた。

歴史の正統という価値観に立脚した思考、評価を掘り下げていけば、明智
光秀が英雄であり、本能寺に信長を葬ったのはやはり「義挙」であるとい
うことになる。

戦後、とくに左翼知識人や天皇を否定する進歩的文化人が流布してきた安
易な評価への逆転史観が生まれる。

 となると本能寺の変を「謀反」と位置づけた、浅はかな歴史改ざんをも
ともと行ったのは誰だったのか?

評者(宮崎)は、天下を合法性なく握った秀吉が張本人だと踏んできたの
だが、井尻は秀吉より先に誠仁親王と、その周辺とみる。

そして義挙はいったん成功するが、公家、同胞の日和見主義により、秀吉
の捲土重来的巻き返しの勢いに叶わず、また土壇場で評価が逆転した。こ
の悲劇の武将=明智光秀と2・26の将校らに井尻氏は近似を見いだすので
ある。

豊臣秀吉は棚ぼた式に権力を簒奪し天下人となったが、その『合法性』は
疑わしく、右筆らを動員して、なんとしても明智を『謀反人』と仕立て上
げる必要があった。でなければ天下を収める理由なく、せいぜいが信長軍
団の内紛として片付けてもよいことだった。

他方、明智にはそもそも天下を収める野心がなく、君側の奸を討ち、天下
に正義を訴える目的があった。

 
ともかく天皇を亡き者にしようと企んだ乱暴者、仏教徒を数万人も虐殺
し、よこしまな覇者になろうとした織田信長が、なぜ近代では「法敵」と
いう位置づけから唐突に転換し、英雄視されることになったのか。

井尻の『明智光秀』はその歴史の謎に迫る会心作である。

近代合理主義の陥穽におちた歴史解釈を白日の下にさらし直し、本能寺前
後の朝廷、足利幕府残党、公家の動向を、かろうじて残された古文書、日
記(その記述の改ざん、編集し直しも含め)などから推理を積み重ねて、
事件の本質に迫る。構想じつに20年、井尻千男畢生の著作ができあがった。

 筆動機を井尻氏は次のように言う。

「小泉純一郎総理が皇室典範の改正を決意したと思われた頃、市川海老
蔵演ずる『信長』(新橋演舞場)を観劇していたく感激したということが
メディアで報じられた。そのことを知った瞬間、私は光秀のことを書くべ
き時がきたと心に決めた。思うに人間類型としていえば、戦後政治家のな
かで最も信長的なる人間類型が小泉純一郎氏なのではないか。

言う意味は、改革とニヒリズムがほとんど分かちがたく結びついていると
言うことである。そもそも市場原理主義に基づく改革論がニヒリズムと背
中あわせになっているということに気づくか、気づかないか、そこが保守
たるか否かの分岐点」なのだ。

 ▼合理主義とニヒリズム

第一の例証として井尻氏があげた理由は、「近代史家のほとんどは信長の
比叡山焼き討ちを非難しないばかりか、その愚挙に近代の萌芽をみる」か
らであり、「宗教的呪縛からの自由と楽市楽座という自由経済を高く評価
する」から誤解が生じるのだ。

つまり「啓蒙主義的評価によって、信長の近代性を称賛する」。保守のな
かにも、そういう解釈がまかり通った。『政教分離』の功績をあげた会田
雄次氏もそうだった。中世的迷妄という迷信の世界から、合理主義という
近世を開いたのが信長という維新後の歴史評価は、信長の「底知れぬニヒ
リズムを」見ようとはしない。

南蛮から来たバテレンを活用し、既存宗教に論争をさせた信長は、さもキ
リスト教徒のように振る舞った印象を付帯するが、信長は耶蘇教を巧妙に
利用しただけである。

 安土城跡には2回ほど登ったが、麓の総見寺のご神体は信長である。ま
た安土天守閣は「天主」であり、「天守」ではない。このふたつのことか
らも信長の秘めた野心がほの見えてくるようである。信長の耶蘇教好きは
演技にすぎず、自分が神に代わることを夢見た。

井尻氏はかく言う。

「信長が、キリスト教という一神教に関心と好意を懐いたのは何故か。一
つの仮説は信長が一神教の神学に信仰ではなく、合理主義を発見した、と
いうことである。(中略)その合理性に比べるに、我が国の当時の宗教界
は神仏混淆で、はなはだ合理性を欠いていた。というよりも、そもそも合
理性というものにさしたる価値を見なかったのである。それに室町期に隆
盛した禅宗文化は直感と飛躍と閃きにこそ価値を見いだすのであって、い
わゆる合理性には価値を置かない」のだ。

「神なき合理主義がほとんどニヒリズム(虚無主義)と紙一重だというこ
とに」、日本の哲学者、歴史かの多くが気づかなかった。あるいは意図的
に軽視した。それが信長評価を過度に高めてきたのである。

 かくて正親町天皇に対して不敬にも譲位を迫り、誠仁親王を信長は京の
自邸(二条御所)に囲い、あろうことか征夷大将軍しか許されない東大寺の
「蘭奢待」を切り落として伝統と権威をないがしろにした。

天皇と公家を威圧するために2度にわたる馬揃えを展開し、覇者への野心
を目ざす。これを諫めようとした荒木村重一族を想像を絶する残虐さで虐
殺し、ついに知識人が信長打倒で、ひそかに連合し、光秀をたのみ、とう
とう正統を護るために光秀は義挙に立ったという経過を辿る。

従来の解釈とは、光秀の遺作「ときはいま天が下しる五月かな」の「と
き」は土岐だろうという推定だったが、そうではなく、また『天』は野心
を秘めた光秀の天下取りの「天」ではなく、井尻氏は「天皇が統める
国」、すなわち明智の意図は、正統に戻す、国体を護るための決意をのべ
た句であるとする。

『古今和歌集』の一節に遡及して、「かかるに、いま、天皇の天下しろし
めす」にこそが源流で、「天」は天皇、下は「民草」、しるは「領る」、
ないし「統治」と解釈される。

尊皇保守主義の復権を目指した光秀の行動と重ねると、一切の符帳はあう。 

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