2018年05月29日

◆京都「和歌に登場する山科」

渡邊 好造


百人一首など平安、鎌倉時代の和歌集に登場する山科の代表地は、「これやこの行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」と、蝉丸が詠んだ"逢坂の関"である。

清少納言や藤原定方ら有名歌人もこの地を取上げているのは以前に紹介した。行政的には隣の滋賀県大津市になるが、現地に立ちその地形をみれば山科エリアだと十分頷けるはず、、。今回はそのすぐ隣りの"音羽山"など、和歌に詠まれた古都京都の奥座敷、山科の優雅な雰囲気を感じとっていただきたい。
 
音羽山は高さ593メートル、逢坂の関の南西、山科四ノ宮の南東に位置し、山科盆地を囲む山の一角にある。音羽山が登場する和歌として有名なのは次の2首。

紀貫之(平安時代の歌人・土佐日記の作者・原典は古今集)= 「秋風の吹きにし日より音羽山 峰のこずえも色づきにけり」。貫之の従兄弟にあたる紀友則(歌人・古今集)= 「音羽山けさ越えくれば時鳥 梢はるかに今ぞ鳴くなる」。
逢坂の関と音羽山の両方を詠んだ和歌も多い。

代表例をあげると、、
・源実朝(鎌倉幕府3代将軍・金槐集)=「逢坂の関やもいづら山科の 音羽の滝の音にききつつ」。
・後鳥羽院(鎌倉時代第82代天皇・原典不明)=「逢坂の関の行き来に色変わる 音羽の山のもみぢ葉」。
・源俊頼(平安時代歌人・金華和歌集)=「音羽山もみぢ散るらし 逢坂の関の小川に錦織りかく」。
・慈円(慈鎮・鎌倉時代天台宗の僧・原典不明)=「音羽山卯の花垣に遅桜 春を夏とや逢坂の関」。
・在原元方(平安時代歌人・古今集)=「音羽山音にききつつ 逢坂の関のこなたに年をふるかな」。

この他、当時の和歌集には小野、花山(かざん)、栗栖野、日の岡といった山科の地名が、いくつも登場する。

・藤原権中納言長方(平安時代公家、歌人・続古今集)=「見渡せば若菜摘むべくなりにけり 栗栖の小野の萩の焼原」。
・後鳥羽院(平安・鎌倉時代の天皇・夫木和歌抄)=「秋はけふくるすの小野のまくずはら まだ朝つゆの色ぞにほひぬ」。
・藤原定家(鎌倉時代公家、歌人・定家の歌集拾遺愚草)=「花山の跡を尋ぬる雪の いろに年ふる道の光をぞみる」。
・土御門院(鎌倉時代の天皇、後鳥羽天皇の皇子・続古今集)=「はし鷹のすすしの原 狩りくれて 入り日ノ岡にききす鳴なり」。

和歌に登場する1千年程前の山科の眺望は想像し難いが、現在の山科の絶景はと問われたなら筆者は次の3つを挙げる。
@東山ドライブウエー将軍塚辺りから見下ろす京都中心部の眺望(京都タワーは目障りだが、、)。
A山科疎水道からの山科の展望(写真・左にJR琵琶湖線、白い土手の右下は京阪電車京津線、後方は東山連峰)。
B音羽山から眺める東山連峰に沈む夕陽。

夕陽については、朝陽のような眩しさや暑さを感じさせないのでじいっと見つめるうち、両手を合せてつい願い事を呟きたくなる。

平安・鎌倉時代の歌人達が眺めた山科の夕陽は、三方を山に囲まれた盆地にあって、今とはまったく異なる自然が一杯の目を見張らせる光景だったはずだが、各種の資料をひっくり返してもこの夕陽を詠んだ和歌は発見できなかった。

京都古人、宮廷人、天上人の視点は、大地、天空、山脈、天下の情勢、庶民生活などを大きく広く見渡すことよりも、恋人、愛人(不倫)、片想い(失恋)、鳥、植物など目前の夢の世界にのみ向けられているかにみえる。

こうした天上人のお気楽な暮らしぶりに対し不満がくすぶり、やがては積重なって鎌倉時代以降の武家社会へと変革していく、そうした様が和歌には窺える。(完)

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