2018年06月01日

◆志の人・伊能忠敬没後200年

加瀬 英明


志の人・伊能忠敬没後200年と、明治維新150周年

今年4月21日、東京千代田区神田の学士会館で、『忠敬没後200年記念・
伊能測量協力者顕彰大会』が催された。

忠敬は寛政12(1800)年に深川・富岡八幡宮に成功祈願を行ったうえで、
徒歩による全国海岸線の実測に出発したが、17年後の文政元(1818)年
に、測量続行中に、73歳で病没し、その3年後に、門弟たちによって、
『大日本沿岸輿地全図』が完成した。

 伊能図協力者子孫への感謝状

学士会館のホールには、伊能忠敬研究会の努力によって、全国にわたって
忠敬の測量に協力した、名主や、庄屋、本陣、代官、目付などの子孫が特
定されて、そのなかの76人が、研究会、イノペディアをつくる会、伊能
忠敬子孫一同から、「功績感謝状」が贈られた。

忠敬の測量は、蝦夷地から始まり、伊豆七島まで9次にわたった。忠敬の
『日本全図』は「伊能図」とも呼ばれるが、今日、埋め立てによって海岸
線が大きく変わっているものの、誤差がほとんどなく、きわめて正確なも
のだった。

協力者の子孫の名が呼ばれるたびに、「駿河国沼津領野村名主」とか、
「陸奥国」、「出羽国」、「越後国」、「遠江国」、「佐渡国」、「播磨
国」、「若狭国」、「豊後国」というように、当時の地名が用いられたの
で、そのあいだ、江戸時代に生きているような錯覚にとらわれた。

 忠敬の子孫の代表

忠敬の多くの子孫が招かれたが、私を含む5人が代表して登壇した。

私は忠敬の孫の孫の子である玄孫(やしゃご)に当たるが、忠敬の次女のし
のが、銚子の隣にある旭村(現・旭市)の加瀬佐兵衛に嫁いだことによる。

忠敬は九十九里浜の貧しい漁村に生まれ、幼年時代は恵まれなかったが、
向学心が高く、漁具を収める浜小屋の番をしながら、勉学に励んだ。佐原
の家運が傾いた庄屋の伊能家に、養子として迎えられたことが、人生の転
機となった。酒造業を建て直すかたわら、暦学、和算、天文学、測量学を
学んだ。

今年は、明治維新150年に当たる。日本は明治に入ると、近代化に短時間
で成功し、西洋列強と肩を並べるようになったが、これは江戸期の庶民の
力によるものだった。私は庶民の血を受け継いでいることに、大きな誇り
をいだいている。

忠敬の測量に協力した人々は、大部分が庶民だった。幕府から藩に、忠敬
の測量隊がいつ到着するか連絡があると、藩から村へ伝えられ、村民が総
出で測量に協力した。

 明治3年の初の国勢調査 

武家は明治3年に初めて行われた、国勢調査によれば、人口の8%弱にし
か、当たらなかった。人口の90%が民庶とも呼ばれた、庶民だった。

江戸時代は近代日本を創った、輝かしい助走期だった。日本は世界に誇る
べき社会を、形成していた。

今年は、政府が「明治維新150年」を祝う式典を行うことになっている。

50年前に100周年が巡ってきたが、当時の政府は「維新」という言葉を省
いて、「明治100年記念式典」を催した。

時の佐藤栄作首相が挨拶したが、「維新」という言葉に触れることが、
まったくなかった。維新を語らずに、明治100年を語っても意味がない。

 昭和天皇のお言葉「明治維新以来の先人の英知と勇気」

この時の式典に、昭和天皇の御幸を仰いだが、お言葉のなかで、「明治維
新以来の先人が、英知と勇気で成し遂げた業績」と、仰せられた。

明治維新が「革命」だったと、物識り顔をしていう学者がいるが、まった
く筋違いだ。「革命」は断絶をもたらす。維新は古来の日本へ復古する、
御一新だった。

今年の「明治維新150年記念式典」において、今上天皇から聡明なお言葉
を賜ることになるが、朝鮮半島危機が募るなかで、明治維新を称讃され
て、国民をお励まし下さることと思う。

だが、日本国民がどうして150年前と較べて劣化して、かつての気概 を失
い、不甲斐なくなってしまったのだろうか。

幕末から明治にかけた日本国民は、「英知と勇気」が汪溢していた。今
日の日本人のような、意気地(いくじじ)なしではなかった。

 伊能忠敬の偉業は日本の社会の力そのもの

それにしても、忠敬が全国を徒歩によって実測した、17年間の日本の 社
会が安定し、豊かで、よくまとまっていたことに、感心せざるをえな
い。それでなければ、忠敬の偉業が多くの人々によって支えられて、成し
遂げられることがなかった。

忠敬が測量のために、全国を巡っていた時に、対岸の朝鮮王国では、国
王純祖(スンゾ)(在位1800年〜39年)の代に当たった。

悪政のために、飢饉、悪疫、天災によって、農民や、奴婢(奴隷)の流
亡と、不平両班(ヤンバン)や、農民、奴婢による反乱が、各地であいつい
だ。なかでも、純祖11(1812)年に起った、平安道の洪景来(ホン
ギョンレ)の乱が大きなものだった。

 当時の韓国の状況

そのわきで、朝廷では士禍(サファ)と呼ばれたが、儒教の些細な礼法な
どをめぐって、凄惨な党争(ダンチョン)に明け暮れ、国の態(てい)をなし
ていなかった。

権力者が王権を代行して、政治を専横する勢道政治(セドチョンチ)のも
とで、役人の綱紀が乱れ、下級官吏まで賄賂が横行した。朝鮮王国は、亡
国が避けられなかった。

今日、朝鮮半島で危機的な状況が続いているのをよそに、日本で国会が
モリトモ問題、セクハラを巡って党派抗争に耽って、空転しているのと、
よく似ている。

今日の日韓関係に目を転じると、韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領が
北に秋波を送るかたわら、ことあるごとに日本を蔑んで、足蹴にするのに
忙しい。

そのために、日本では嫌韓感情が日増しに強まっている。いまや、全国
民が韓国を蔑み、哀れむようになっている。

だが、私たちにいったい、韓国を蔑む資格があるものだろうか。

韓国は日本統治が終わって、すでに73年になるのに、いまでも「日帝 時
代」が悪かったと非難して、自立できないでいる。日韓併合は73年の 半
分の、36年でしかなかった。

日本でも、アメリカによる占領が65年前に終わったというのに、東京 裁
判をはじめ、アメリカの占領政策が悪かったからといって、占領時代を
非難するのに忙しく、いまだに自立することができない。韓国によく似て
いると思う。

韓国では、李氏朝鮮が日韓併合まで、500年にわたって続いた。李朝 は高
麗朝の将軍だった李成桂(イ・ソンゲ)が、クーデターによって高麗朝 を
倒して、自らの王朝をたてた。

李朝は、軍がクーデターを起す危険な存在だとして嫌って、軍を軽ん
じ、国防に役に立たない必要最小限の兵備しか、持たなかった。宗主国の
中国による保護に依存して、外敵の侵略を蒙るたびに、中国に救援を求め
た。そのために、国土が何回にもわたって、蹂躙された。

今日の日本は、中国をアメリカに置き換えると、李氏朝鮮と変わらない。

日本の国会議員や、大手のマスコミ人、学者たちには、朝鮮服が似合う
のではないかと思う。

 明治新政府の開港の決断こそ、日本を救った

明治維新に戻ると、幕府が開港に傾いたのに対して、国学者や武士の大
多数が、日本が神国であると唱え、攘夷を頑くなに主張した。もし、攘夷
を貫いていたとすれば、西洋列強の侵略を蒙って、本土決戦が戦われたこ
とだった。

 明治新政府が開港に踏み切ったことによって、日本が救われた。

今日、「平和憲法」を「神国思想」にいい替えて、神聖視する護憲派
は、幕末の狂信的な「攘夷派」に当たる。「専守防衛」を頑くなに主張し
ているが、敵が国土を侵すまで戦えないのだから、焦土をもたらす本土決
戦を望んでいるにちがいない。


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