2018年09月11日

◆パキスタン新政権

宮崎 正弘


平成30年(2018年)9月10日(月曜日)通巻第5822号  

 パキスタン新政権、はやくもIMF救済回避策に対案なし
  「なぜ高級車や、輸入チーズが必要?」とイムラン・カーン首相

 パキスタン下院議員選挙で想定外のハプニングはクリケット選手(ワー
ルドカップ優勝)から政治家に転じたイムラン・カーンが新首相となった
ことだ。新たに有権者となった2000万人の若者と、背後では軍の支持が
あった。

すぐに直面したのは債務危機だった。1980年以来、すでにパキスタンは
15回もIMFに救済を仰いできた。今次、またまたIMF管理となる
と、さらに経済は貧窮化するため、緊急に中国の融資を仰いだが、焼け石
に水だった。

中国が主導するCPEC(中国パキスタン経済回廊)も、570億ドルの予
算が、いつの間にか620億ドルに膨らみ、しかもあちこちで工事中断して
いるため、大幅な遅延が生じている。

9月9日、イムラン・カーン首相は「高級車、輸入チーズ、スマホの輸入
制限を検討中だ。なぜ外貨不足の現在、贅沢な輸入チーズが必要なの
か」。しかし、これら贅沢品243品目に対してパキスタンはすでに50%の
関税をかけている。

それでも2018年上半期の貿易赤字は43%増の180億ドルに達しており、主
として原油代金値上がりが原因とはいえ、ますますパキスタン通貨は下落
し、外貨準備は底をついている。同時期にパキスタン中央銀行は3回も利
上げを繰り返しているが、通貨は40%の値下がりを示した。

「スマホ、高級車、そしてチーズの輸入を自粛すれば外貨を45億ドル節
約でき、さらに輸出を増やせば30億ドルの経常収支の改善に繋がる」とイ
ムラン・カーン首相は、空しい展望を語った。

IMF救済、通貨、金利、経済政策の管理体制に入ると、もっとも嬉しく
ない国は中国になる。

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 書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評BOOKREVIE 
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 時代の雰囲気は信長という覇王の排除を念願していた。
仏教界。公家、町衆は強烈に信長の死を望んでいた

橋場日月『明智光秀 残虐と謀略』(祥伝社新書)
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豊橋市金西寺に伝わる『當寺御開山御真筆』は2014年に発見され、島田大
介(豊橋創造大学教授)と高崎俊幸住職によって解読が進められてきた。
2017年2月4日の『毎日新聞』報道に拠れば、そこには光秀を礼賛し、信
長は悪人と記されていた。

当時の仏教界は本能寺の変をなした光秀は「勇士」であり、その行為を快
挙として喝采し、信長は「黒ネズミの平清盛の再来」と、後智恵で解釈し
がちな現代人には理解しがたかった当時の雰囲気がリアルに伝わった。
 この古文書は江戸初期に編まれたもので、同寺を開いた月令(山冠に
今)和尚が書いたものだが、当該文書の冒頭に京都東福寺住持だった集雲
守藤(別号「江湖散人」)の詩文が引用されている。

この詩文は本能寺の変の翌月に書かれたことが判明しており、時代の雰囲
気がそのまま余韻を残しているのである。そこには「信長は京都を鎮護し
て二十余国を領したが、公家を蔑ろにして万民を悩まし、苛政や暴虐は数
えきれず、信長の死を人々は拍手した」云々とあった。 
つまり信長は嫌われていた。

朝廷、公家ばかりか京都の民、仏教界、堺衆からも、そして末端の庶民に
到るまで、魔王を早く排除せよとする声が満ちていたことを如実に示唆し
ている。この意味で、有益な古文書である。後の世に出た『信長公記』
『明智軍記』はあまりにも後智恵が多く、これらを根拠として書かれた芝
居も小説も歴史評論も、時代的雰囲気を掴みきれない弱点があると言える
だろう。

時代の雰囲気は信長という覇王の排除を念願していた。仏教界は強烈に信
長の死を望んでいた。公家も、町衆も、要するに周辺の総意だったことが
分かる。

さて本書は、題名はともかくとして、冒頭に上の『當寺御開山御真筆』文
章の紹介があるので、光秀を正当に評価するものかと期待して読んだが、
結論は一言で言うと光秀野心論。高柳光寿の現代バージョンである。

明智光秀はぬきんでた能力を発揮し、戦闘の陣形の取り方、鉄砲隊の配置
とタイミングの絶妙、強引な駆け引きと陰謀、調略に富んでいた。武将と
してぬきんでた存在だった。

この点は著者の橋場氏も高く評価している。

光秀は卓越した指導者だった。だから信長軍団にあって一番乗りの城持ち
大名となり、惟任日向守という官名も一番先に、しかも一等上のランク
だった。秀吉が勝家が恒興が長秀が一益ら周囲が羨望と嫉妬を燃やすのは
当然である。

だが、誰もが明智に叶わなかったのは、その識見だった。並外れた教養を
前に、武将達は超えられない存在と認識していた。だから失敗を待っていた。

光秀は娘らの婚姻を政略の道具として進めたため細川とも長宗我部とも親
戚であり、西国から瀬戸内海の富を得ようとする野心があったとする。
 だが本能寺の変で誰も呼応せず、瀬田の橋を落とされて安土城攻略に三
日の後れを取り、山?の合戦では鉄砲隊の配置で勝てる布陣をなしたが、
不運にも雨にたたられて鉄砲は役にたたなかった。

騎虎の勢いで光秀を撃破した秀吉だったが、いきなり天下人になれたので
はなく、彼の野望に立ちはだかる武将が何人もいた。?川、毛利、伊達、
島津。。。。。。。

その前に織田軍団の内ゲバを片付ける必要があった。

秀吉が跡目相続で織田の権力を簒奪することは眼に見えていたが、それを
許せないと思うのも、信長麾下にあった鎬を削ってきた仲間から見れば当
然であり、なぜ自分が猿の風下に立たなければならないのかを考えただけ
でも腹立たしいだろう。

だから先輩格として猿ごときとさげずんだ柴田勝家が立って、前田利家と
佐々成政は従ったが、同じ先輩格でも丹羽長秀は秀吉に付いた。滝川一益
は遠く厩橋にあって間に合わず、同格と考えてきた池田恒興にとっては秀
吉についたほうが裨益すると思ったまでのことであり、賤が岳の一戦では
武将等の思惑と打算が動いた。

また戦争とは謀略と残虐がともなうのであって、光秀に限らず誰もが突っ
走った。残虐非道をいうなら一向一揆を皆殺しにした信長が一番であり、
同時に野心をいうなら誰もが天下を夢見るのは当たり前の心理だろう。

ところで本書はフロイスの言を多用しているのも腑に落ちない。
 『日本史』でフロイスはこう書いた。

「(光秀は)裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあっ
たが、己を偽装するのに抜け目なく、戦争に置いては謀略を得意とし、忍
耐力に富み、計略と策謀の達人であった」

この表現の本当の読み方とは、戦国にあって裏切りは世の常、密会は茶
会、連歌会、刑に厳格なのは法治主義の萌芽ともとれ、また異教徒を前に
おのれをさらけ出すのはバカである。謀略が得意の武将は、この時代の絶
対必要条件である。 

イエズス会とは、誤訳であり、これは「イエズス軍」と翻訳するべきで、
こんにちのアルカィーダ、IS、タリバンの類いの狂信者集団と同じ狂信
的使命感と狭窄なドグマを信じている。独善的で侵略的で、それこそ他国
を侵略し、民を洗脳し、奴隷貿易で肥えた。

アルカィーダがキリスト教を高く褒める報告を作成するだろうかと考えた
だけでも、フロイスの譬喩は、その宗教的組織の意図を割り引く必要があ
るのだ。フロイスの報告書が明智をぼろくそに酷評するのは、おそらく切
支丹大名の入れ智恵、あるいはイエズス会の正体をはやくから見破ってい
た明智に対しての悪意からくる意地悪い報告書で、全幅の信頼には値しな
いのである。
        
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  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1786回】        
――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(11)
  徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)

       △
 杭州から引き返した上海で、徳富は3人の政客を訪れた結果、「支那の
現時と思想界」の状況を「要するに支那の現時は、猶ほ戰國の當時の如
く、思想混亂、鼎の沸くに似たり」と把握した。

政治勢力は北京を拠点し「軍國主義を主とする北派」、革命派の伝統を継
ぎ南方に基盤を置き「民權自由主義を主とする南派」、それに清朝再興を
目指し「從來の孔孟主義を主とする復辟派」の3派が鼎立しているが、
「若し支那の分裂を以て、單に思想の分裂より來るものと」するなら、そ
れは早合点というものだ。

それというのも「凡そ世界に支那人の如く不思議なる人種なし。極めて
現實的にして、且つ極めて空想的也。極めて物質的にして、且つ極めて理
想的也。儉約者にして、浪費者也。無頓着者にして、拘泥者也。損得勘定
以外に、何物もなしと思へば、却て體面抔と鹿爪らしく、持ち出だす
也」。国家としても個人としても「幾多の矛盾せる性格あり。若し支那人
を見て、單に其の一端を捉へ、之を以て百事を律し去らん乎」。

かくして「蓋し支那人は、複雜したる心理學的の資料也」。であればこ
そ、「其の眞面目を知るの難きは、恐らくは廬山の面目を知るの難きより
も難からむ」。

とにもかくにも相手は人口比で日本の11、12倍で、その上に複雑怪奇極
まりない振る舞いを見せるわけだから一筋縄でいく訳がないことを、先ず
もって肝に銘じておくべきだ。

その辺りを宮崎滔天は「一氣呵成の業は我人民の得意ならんなれども、
(中略)急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には
中々及ぶ可からず」(「暹羅に於ける支那人」)と記し、勝海舟は「支那
には機根の強い人が多いからネ。ズツト前を見通して何が起つたつてヂツ
トして居るよ。これはかういふ筋道を行つて終ひはかうなるものだくらゐ
の事はチヤンと心得てやつてるんだよ。そこをこちらから宜い加減に推量
して、自分の周囲よりほかに見えない眼で見て、教へてやらうとかどうし
ようとか言つてサ。向ふぢやかへつて笑つて居るよ」(「戊戌の政変に際
して」)と語ったのではなかろうか。

「李鴻章の實子にして、其の面目宛然小李鴻章」の李經邁を訪問した徳
富は、「其の機略、權數、人を呑むの慨、往々其の應接、言論の端に暴露
す」るを感じたようだ。李は「共和政治は、支那に於て尚ほ三百年早し
と」した後、日本との関係に就いて「歐亞に於ける、帝國的大同盟を夢
想」している風であった。

どうやら「議論は、當否は姑らく措き、極めて痛快」な李の振る舞いに感
動したのだろう。上海滞在中に面会した「支那各方面の人物中、尤も多く
予に印象を與へたる」2人にうちの1人が李經邁だったとのこと。李とは
「極めて流麗なる英語にて對話せり」とのことである。

上海滞在中、徳富は蔵書家で知られた何人かを訪ね書庫を覗いている
が、その感想を「支那は流石に文字の國也。一方には革命騒動の眞中に
も、他方には古書珍籍を蒐集して、自から樂しも者あり。而して流石に、
書物の本家本元丈ありて、幾多の爭亂、兵火を經つゝも、尚ほ舊槧、舊鈔
尠からず。所謂る古川水多しとは、此事也」と綴る。

数日の上海滞在の後、北上して曲阜、泰山を見物の後、青島から帰国の途
に就くわけだが、徳富は上海を「南方の要衝にして、然も列國合同の小共
和國たり、四圍の壓迫なく、高天厚地、自由の空氣充滿したるが爲乎」と
表現した。

その上海で日本人は「一大勢力たり」。「兎も角も從前に比し、日本人
は上海を?行闊歩しつゝあり。是れ現時に於ける、戰爭の影響なる可き
も、亦國運増進の賜たる可し」。

また上海は「支那に於ける、殆んど唯一の安全地帶」であるがゆえに、
「支那に一事變ある毎に、上海は必ず膨張す」る。

だから「日本の工業が、此地に勃興する暁とならば、更らに其の隆盛を見
るの時あらむ」と将来を予想するのであった。
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