2018年10月11日

◆孟宏偉(インターポール総裁)の拘束

宮崎 正弘


平成30年(2018年)10月9日(火曜日)弐 通巻第5850号  

孟宏偉(インターポール総裁)の拘束は「第2の王立軍」を想起
中国公安部の高層部、すべて入れ換えていた事態が意味するもの

「孟宏偉の収賄嫌疑は疑わしく、本質は周永康派残党の一掃にある」と香
港筋が分析している。

「これは第二の王立軍ではないか」とする観測家によれば、すでに、かつ
ての周永康時代の副部長だった李東生、楊換寧と政治部主任だった夏崇源
らが「周永康の余毒だ」として失職している。

とくに李東生の場合は早くも2013年に拘束されている。

汚職の罪状が理由だったが、江沢民派の大幹部だった事由によるとされ、
周永康失脚の序曲となった。楊換寧の拘束は2017年5月、また夏崇源は同
年10月に「重大な規律違反」として職を解かれた。つまり孟は周りを囲ま
れていたのだ。

「王立軍事件」とは2012年2月、成都のアメリカ領事館に政治的保護を求
めて王立軍が重慶から車を飛ばして駆け込んだことにより露呈した薄煕来
夫人の英国人殺人事件の暴露だった。

これによって習近平最大のライバルだった薄護来の失脚に繋がった。王立
軍は薄の右腕として、重慶の公安局長に招かれ、マフィア退治で辣腕を振
るったが、薄の機密を握ったことで逆恨みされ、身の危険を察知、アメリ
カへの亡命を希求した。

ところが、オバマ政権は決断が出来ず、中国の反発を怖れて王立軍の身柄
を中国当局に引き渡す。

孟宏偉(インターポール総裁)の事件はいくつかの重要な意味を持つ。イ
ンターボールは世界的な捜査協力、とくにテロリスト、資金洗浄、國際犯
罪組織、麻薬武器密輸の取り締まりが目的であり、中国は海外へ逃亡した
およそ百名の逮捕を目的としていた。

第一にかりにもインターポールは百年の歴史(1923年設立)を持ち、
190の国が参加する国際機構である。その長として、中国の名声を確保
した「国際的権威」というイメージが中国共産党自らが國際スキャンダル
を引き起こし、損傷した。

だが中国側の反論たるや、詭弁に満ちている。

「西側メディアは行方不明とか、連絡が取れないとか、おかしな語彙で騒
いでいるが、中国は厳正に法律に基づいた措置をとっているのであって、
とやかく言われる筋合いはない。

嘗てIMFのストラス・カーン専務理事がホテルのメイドへの性的暴行で
逮捕されたとき、いかなる高位の人物であれ、法を犯したので逮捕したよ
うに、孟宏偉も、法を犯したから拘束したまでのことだ」(環球時報、10
月8日)。

第二に国家の公安部副部長(日本で言えば副大臣。ただし中国の副部長格
は五、六人いる)という高位にある人間を拘束するからには、共産党最高
幹部の承認があったことを意味する。

つまり孟が周永康派の生き残りであり、周永康はかつて公安系を牛耳り、
薄煕来と組んで、クーデターを試みたと噂されたため習近平がもっとも怖
れてきた存在だった。

したがって、機密を持ち、党に爆弾となるような行動を取るか、或いはフ
ランスへ亡命するなどとなれば、中国共産党にとって不名誉この上なく、
巧妙に北京におびき寄せて拘束師、口を封じたことになる。それが孟が夫
人宛の最後のメッセージで身の危険を十分に認識してナイフの写真を送信
していたことが歴然と証明している。

     
☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆⌒☆書評 しょひょう 
BOOKREVIEW 書評BOOKREVIEW
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  

稀有な環境の下、日中混血の著者に降りかかった悲運の連続
日本に帰国しても、楽な人生は何ひとつなかった

  ♪
小泉秋江『中国と日本 2つの祖国を生きて』(集広舎)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

著者は帰国子女の範疇にはいるが、「大躍進」という名の飢餓状況時代に
まだ五歳だった。両親が不在という空間で奇跡的に生き抜いた。

父親は中国人軍医、母親が日本人教師で満州に赴任しており、著者が生ま
れたのは共産党政権成立以後の1953年だった。

なぜ戦後に? 日本に絶望していた著者の母親が(女子師範卒だった)上
役の勧めで満州の奉天の教職を得たからだった。

 両親も著者も兄妹も、嵐の「文革」で凄まじいいじめを体験し、そして
下放され、あまりの惨めさ、過酷さに睡眠薬自殺を図ったが、生還した。
下放先では暴行、監禁、強制労働という「生き地獄」を歯を食いしばって
生き抜いてきた。

母親の里帰りの付き添いという名目で、兄と3人で帰国した。

日本に帰国後、夜間中学に通って日本語を覚え、貿易会社に勤める傍らで
添乗員としてもアルバイト。ようやく会社を立ち上げたところ病魔に襲わ
れて失明寸前という地獄の連続だった。

帰国子女の苦労譚は数多く、本書もその一冊に加わるだろう。

ただし気になったのは歴史認識が間違っていることである。満州国がでっ
ち上げとか、満州陣を追い出して農地を手にしたとか、廬講橋事件で日本
の侵略戦争が始まったとか、中国でうけた洗脳教育の残滓がところどころ
記述されている。それが間違いであり、満州国は国際的に承認されていた
し、入植者の土地は「かれらが」売りに来たこと、廬講橋事件は共産党が
しかけた謀略だった歴史の真実はスルーされている。しかし、その点は帰
国子女の受けた教育空間の過ちであって著者の過ちではない。

いまも、著者は悪夢に悩まされるというほうが深刻な問題である。

「大きな声にびっくりして目が覚めました。自分の声でした。全身汗をか
き、のどがカラカラになっています。またあの悪夢を見たのです」

 それは「何者か、黒い敵に追いかけられ、けんめいに逃げるのですが、
逃げても、逃げても、追いかけてくる。隠れたり、高い崖から飛び降りた
りしても、なお追いかけてくる悪魔! つかまったら殺される! ついに
袋小路に追い詰められ、もはやこれまで! というところで目が覚めます」

こういう人生を送らざるを得なかった著者の不幸を思う。
            
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ♪
樋泉克夫のコラム
@@@@@@@@

【知道中国 1801回】            
――「支那人は不可解の謎題也」・・・徳富(26)
徳富蘇峰『支那漫遊記』(民友社 大正7年)

■「(32)家族と世界」

「支那は一國と云はんよりも、寧ろ一世界也」。これに対し「日本は一國
と云はんよりも、寧ろ一家族也」。しかも皇室が「開國以來、否な寧ろ開
國以前よりの綱紀」であり続いている。だから武家政治が廃れようとも、
国の大本は一貫している。だが「試みに支那に向て之を見よ、中央集權の
基礎」はもちろん、「中央集權の訓練」すらない。

古来、「地方分權抔」を掲げているが、「其實は全然放任政治」というも
の。「支那の政治の亂雜なるも、此が爲め」である。だが、その一方で
「其の亂雜ながらも、分裂なくして、兎も角も國土の統一を失はざりし
も」、「放任政治」の故であった。つまり「四千年來、支那は國として
も、中央集權」であったことはなく、「民としても、中央集權の政治に服
したることなし」。だから「直に日本的中央集權の政治を、支那に?行」
しようとしたところで、「其の不成功や、必然の數也、理也、勢也」。

■「(33)翻譯政治の失敗」

とどのつまり「支那の失敗は、翻譯政治の失敗」であり、自らが備えた諸
条件に対する深刻な考察を経ることなく他国の成功例を持ち込んだところ
で成功する訳がない。「日本の先例は、日本にのみ用ふ可くして、支那に
用ふ」ることは不可能だ。

「要するに皇帝を稱するにせよ、大總統と稱するにせよ」、「支那に向
て、日本型の中央集權の政治を行はんと」するは、元より無理な相談だ。
なぜなら「中央集權の政治は、支那四千年の?史に背違し、支那の國民
性」とは相容れないからだ。

ともかくも「?龍江邊より、土耳其斯坦の沙漠迄、蒙古の曠原より海南嶋
迄、一律に律し盡さんとす」ることそれ自体、無理なのである。

■「(34)袁世凱の幽靈」

清末以降の政治を振り返るに、その大本の流れは袁世凱が導いたといって
いい。袁世凱は死んだが、彼は「支那政治の中樞」に影響を与え続ける。
「概觀すれば、支那現在の政局は、死せる袁世凱、活ける支那を攪亂し
つゝありと謂ふも、決して誣言」ではない。それというのも、「今日の支
那は何れも袁の兒分共が、互ひに鎬を削りつゝ」あるからだ。

子分共の振る舞いをみても、やはり袁世凱は「一身若しくは一家の事」に
のみ強い関心を示したが、「一国の事」などに関心を示すことはなかっ
た。その結果、現在では「幾多の小袁世凱」が蠢き合っているだけで、
「支那の前途も亦た悲觀」するしかない。

■「(35)3個の要件」

「日本さへも一氣呵成に、維新の大業を成就」できたのだから、我われに
できないわけがないと考えているようだが、「凡そ中央集權を施すに
は」、「國是の確立」でもある「國民の精神的統一」。中央政府の下で兵
力を統一的に管理する「兵權の統一」。「全國財賦の權」を中央政府が一
元的に管轄する「財權の統一」――以上の「3箇の要件」が絶対的に必要だ。

「顧みて之を支那の現状に徴」してみるなら、「3箇の要件」のうちのど
の1つも見当たらない。辛亥革命は成功したが、そこに結集した勢力は清
朝=満州族王朝の破壊という一点で一致してはいたものの、それぞれの勢
力が「建設的國是」を持っていたわけではない。多大の犠牲を払いながら
幕末維新の混乱期を乗り越え得たわけは、幸いにも日本は「萬世一系の皇
統」を保持し、「皇室中心主義」で貫かれていたからだ。

翻って見ると、「支那には之に代はる可き何物」もないし、「不幸にして
支那には國論の統一なく、又た之を統一す可き精神的標的」すらない。だ
から未来は暗澹・・。

    
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。